日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆内閣総理大臣とも在ろうものが、何と、品格無きヤジを飛ばすのか。国民が憐れ。

 再会せし国会で、而も、良識の府たる参議院で、異邦人傀儡子宰相安倍晋三以下五、六名の閣僚を集め、集中審議を押し進めている最中に措いて、総理大臣を一とする閣僚陣は静謐理に質問者側からの質問を聞き、且つ、各閣僚陣に対して準備され、入念に用意された質問に対する回答を以って答えれば済むだけの事だが、此の国の内閣総理大臣である宰相安倍晋三は年(職務等)を重ねる度に、良識をして忘れたかの如くに審議ルールを軽視しては無視、権力に潜む横柄さを、然も、特権であるかの如くに露にし、野党側(立憲民主党員)に因る質問に対して無意味にするヤジを飛ばしては、質問趣意の内容伝達をして妨げると云う、答弁者側としては採ってもならない不規則発言(所謂ヤジ)を飛ばし、而も、内閣総理大臣たる安倍晋三自らが質問者に向かって投げ付けたのである。何と言ったのかと言えば、立憲民主党員に対して、「(お前は)共産党(かっ)!」と、然も得意気に、ヤジって見せたのである。

 異邦人傀儡子宰相安倍晋三のヤジであれば、貧相な政治信条や狡猾なる性格からして決して驚く程の事でも無いのだろうが、少なくとも国家宰相の地位に推挙されて、通算八年目を向かえている現状にも在れば、国家宰相の座に就いているのであるから、少し位は国会に於ける良識の表わし方、乃至は、国会とは何をする場で在るかぐらいは学び採り、国民にも良識の一つとして教えて行って欲しい所、また、宰相在任中に於いて、安倍晋三に因るヤジこそ途切れずに在りもしたが、此処まで酷い(他の政党名を出して誹謗中傷して見せる)ヤジは飛ばさなかった筈、基より、ヤジに使われた”共産党”は何十年前の政治的立ち位置とは異なり、今や、我等が日本国民の長たる「天皇家」の存在をして、立憲制とともに、君主制の御存在としても認め、日本共産党(員)としてもまた確認すらしている所では在る。

 そうであるにも拘わらず、異邦人傀儡子宰相安倍晋三は、何を勘違いしたのかは判らぬが、恐らくは、傀儡子宰相としての立場から政治的セリフ習得に相当の時間を費やしている事から疲労困憊真っ只中、新たなる政治施策の掘り起こし等には全く頭すら回らず、判断能力も思考能力もともに停止状況に陥って終っているが故に、また、その様な現況の情報収集力に欠ける事に因り、日本共産党の実状にまでは理解が及ばず、(*)故宮本顕治書記長が、未だに存命に在り、日本共産党に在籍して居るかの如くに、安倍晋三は錯覚でもしているのであろう。また、もう一つ言えば、確かな事は言えないが、故人となって久しい故宮本顕治書記長も古を辿れば、其の面相からし蝦夷一族に在ったのではないかと推定し得る人物、斯かる人物が如何に政治的には非合法組織とは言え、一部の国民の為にでは無く、日本国家国民の為に政治的権力組織と対峙した人物。基より、今でこそ、共産主義に関わる、過去の暗黒時代に於ける話しとして笑い話として済ませるが、自民党安倍政権にとっては過去も今も変わらずの日本共産党としてのイメージ(刷り込み)しか無いのだろう。また、理解を違える知力すら無いのだろう。基より、傀儡子たるモノにはその様な、己と同一の立派な出自にも在る、古の東北王朝史を彩る蝦夷一族を愛でる余裕すら無いという事でも在る。

(*)宮本顕治氏は戦前に於いては非合法組織の政党で在った「日本共産党」の活動家、1958年から40年間党書記長を務め、2007年に没(98歳没)している。

 「(日本)共産党!」とヤジを飛ばした位で、頭から湯気を飛ばして激昂する事も無いのだが、ヤジ飛ばしの張本人が誰在ろう、日本国家権力、特に、行政権をして一手に掌握する内閣総理大臣安倍晋三だからでは在る。まさか、安倍先生に限っては、其の様な、無知にする大のオトナが為す様なバカな真似はしない筈、何かの間違いだろうと言われる所だが、残念乍ら此れが実態と言うもの、其の程度の政治的知力しか異邦人傀儡子宰相たる「安倍晋三先生」には無いのです。

 日本国民の一人として、恥ずかしき人物を内閣総理大臣の席に抱えて終ったもので在るわいと、他の日本国民をして恨みもするが、此れまた民主自由資本主義社会下に於ける、良しとしてつくった選挙手法に於ける結果ですら在れば已む無しとする所、アメリカ合衆国同様に次なる国政選挙の実施まで(改定等は)俟たざるを得ぬもの、基より、次なる国政選挙に於いても、現状と同様の、若しくは其れ以上の、不条理政党や不条理為政者達が国会議員として現れないとも限らずにも措けば、更なる次を待てば済むものでは在る。

 安倍内閣総理大臣の発したヤジ、「(日本)共産党!」は、あの精神疾患著しい合衆国大統領D.トランプに因る、敵対して已まない有色人種群をして小バカにする様なもの、其の模倣では在るのだろう。