日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆疑われる特殊法人

 実は、日本銀行の正体は、<天皇家>の支配下に置かれた唯一の皇室銀行である、と某歴史家は断定的に云うが、本当のところはそうではないであろう。また、皇后陛下を名誉総裁とする日本赤十字社も同様に、実体は<天皇家>の支配下に置かれた組織であって、国も触れぬ治外法権下に在る其処は排他的組織、それが日本赤十字社と言う組織体で、また同じように、皇室に帰属する組織体の存在は、治外法権を伴って数多く活動している現状にもあると指摘する。即ち、国家三権に拠る干渉は、当該組織存続の本質に於いては全く受け付ける事もないとの点を以ってして、天皇家の私的所有物であると即断するのであろうが、正しい見方であるとは言えない。

 某歴史家が云う、所謂、日本銀行の実体は天皇家の私的銀行であるとの断定には、少々疑問すら生ずるもの、即ち、独立性の維持が保障された其処は半官半民機関であってみれば、また、国家中央銀行的性格を帯びた、所謂、国家金融行政の差配機能すら十二分に権有する組織であってみれば、斯かる組織性格から判断してみても些か不合理にも過ぎる其れは理解でしかなく、もっと説得力のある補強証拠を積み増さない限りは俄かに信じる事は出来ないのである。即ち、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が影響力を行使し、天皇家の代行として支配下に置く銀行であるとの組織実態が明瞭に浮かび上がればまだしも納得すら出来るのだが、お寒い限りの状況証拠さえクリアーし得ずに飛び越し、日銀は<天皇家>が支配する銀行である等と云われても面食らうだけ、俄かには信じられないのである。また、日本赤十字社も同様に、<天皇家>の支配下に置かれた組織であって、此れまた治外法権下の排他的組織に在ると言われても、此れまた物議を醸すだけ、縁もゆかりも全くないと迄は断じないが、天皇家に、其の様なもの(組織)は存在する訳も無いし、また、天皇家にとって、所有し支配することが無用である事もまた論を俟たないのである。

 某歴史家の断定的物言いは、勘違いの裁断ミスに因るものであろう事は明瞭、何故ならば、天皇家は、日本国家の長を間断なく御輩出なされ、我ら道々の民の赤子遍くを、民族条理に基づき、大所高所から念じる事を以って御治めになられる御存在、即ち、形而上に於いても形而下に於いても唯一無二の、中心的支柱と成られる御存在を司られるのが今上天皇であり天皇家、其の、我ら道々の民の長に在らせられる天皇(家)に、日本銀行や、況してや、日本赤十字社と云った、個別具体的法人等々の支配など、どうして必要とするのであろう。

 恐らく件の歴史家は、現代英国王室の存在イメージを頭に浮かべて日本の皇室像を当て嵌め、私的経済活動すら個別に為す筈であるとの断定と理解に持ち込んでいるのだろうが、其れこそが主客転倒のもので下衆の勘繰りそのもの、大和の国名を「日本」を以って冠した七世紀後期以降、今日に於いてさえ、歴代「天皇」と「天皇家」に、擬似営利目的を含む斯かる私的活動は全く見られずのもの、基より、道々の民須らくの長に在らせられる、民族表象としての御存在であれば、個別、且つ、私的経済活動など入用ですら無きことは明白、天皇家に絡み付き不条理の奔放を尽くし続ける、所謂、あの日本を駄目にした藤原一族本宗家の仕儀とを、混同してはならないのである。

 日本銀行が、或いは、日本赤十字社が、「天皇家」の外戚を担い続け様と古から模索し、断続的にも実行し続ける、所謂、藤原一族本宗家の影響下に在り、且つ、直接支配下にもあると云う立証を以ってする断定や、其処までは行かずとも、仮説の打ち立てと断ってする論であれば未だしも、天皇家の直接支配下に在る等の断定的伝は、知らぬ者が聞けば本当かと思い、要らぬ風評すら醸成し兼ねず、尾ヒレヒレすら生やすだけのもの、決して好ましかろう筈もない推定となるのである。

 基より、天皇家に、我ら道々の民の社会生活態様に見られる、私的財産の所有や移転など在る由もなく、且つ、無用で在る事の証左は、国家論から推して、日本国家国民の財産並びに負債の須らくが、其の精神性とともに、今上天皇に御帰属もし、且つ、保障してすら戴いているものであり、即ち、天皇家と、我ら道々の民の活動舞台と<竈/かまど>もまた共通にしてもいれば、我ら道々の民を見離す事さえ適わぬ今上天皇天皇家に、私的財産の個別形成など何の為に必要となるのであろう。必要とはしないのである。

 英国王室やその他欧州各国の王室や皇室が、其の存在と活動の本質に於いて、私的財産すら敢えて形成する迄に至るのは、一般国民との間の、血的、乃至、民族移動文明的に、若干とは謂え、共通性、乃至、普遍性に欠けているからであり、事と次第に拠っては、王室や皇室が簡単に国民を切り捨て、或いはまた、其の逆が、時として、彼の国々では発生する場面すら無しとしないからでもある。

 振り返って我が日本国を顧みれば、記紀を借りてすれば二千六百七十一年目が、また、「日本」を冠する国名を以ってすれば千三百四十年、プラスマイナス五年前後が、建国からの其れは経過歳月と云う事にもなるのだろうが、後者に重きを置いたにせよ、変わる事無く御存在に在らせられたのが「天皇」であり「天皇家」、少なくとも、日本国名を冠して以降の「天皇」並びに「天皇家」に、欧州各国の王室や皇室に見受けられる様な不条理性、即ち、意に適わずの国民を直接に排斥したり、或いは、国民から武力を以って排撃を策されたりの、所謂、不条理性は、日本の天皇家には見られる事もなかったのである。

 或る人は時に、「天皇陛下万歳!」を絶叫して敵陣に突っ込み、多くの国民が無益にも絶命した事を以って、若しくは、断崖絶壁から無情にも身を投げ、非業の死を遂げた沖縄県ひめゆり隊の死の選択に対して、或いは、「皇命」の名の下に日本民族の須らくが不条理下に追い遣られた史実を以って、「天皇」の責任は免れないとするが、否、其の実体を暴けば、現状に見られる、即ち、我が長に在らせられる「天皇家」に古から絡み付く、あの日本を駄目にした藤原一族末裔の為の、其れこそが、須らくが作為された錯覚に基づく不条理行動の押し付けで在り、幻想にまで至る不条理下の命令ではあったのである。何れ、斯かる歴史的事実と実態の証左を、ともに議する機会も来ると思うので此の程度に止め置くが、敗戦後に於ける、戦勝国軍に対して示した、所謂、昭和天皇に拠る御言葉、「一億国民の命が守られるのであれば、<帝の>死そのものを厭うものではない」との御言葉が、全てを物語るのである。

 何故に、此の様な、日銀や日赤等の話になったかと云えば、某歴史家に因る上記指摘が在った事も去ることながら、マスメディアの中では、義捐金の受け払いの問題を巡り、厚生省が助力を表明しても尚、余りにも受け払い行為が遅く、其れは日赤等の組織自体に、作為、若しくは、故意が生じている為ではないかとの、猜疑心すら起きている事に注目せざるを得なかったからではある。今では、斯かる疑念の表出も沙汰止み状況とはなっているが、一言付け加えれば、完全にクリアー出来ている状況下には無い事も確か、其れこそ、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が差配する「日本赤十字社」にも在る以上、義捐金受け払いの仔細等々が国家国民の前に開示される事は無く、よしんば、開示されたにせよ、実態の数字そのもので在るとの理解は、国民の自由なる判断の上に成り立つ事をこそ知り置くべきであろう。当該組織が、準治外法権下に在る以上<経理帳簿>の強制開示は不能となるもの、だからである。

 日赤等に集まった邦貨換算三千億円とも公表される、所謂、東日本大震災の罹災者に対する莫大なる義捐金、其の実態が、三千億円ではなく、八千億円規模にも達する義捐金総額に上っているのであると言われても、我ら道々の民には、報道される数字内容以外に明かされる由もなければ、日本赤十字社そのものが、金額の操作を作為しているのではないかと疑われても致し方無いのである。勿論、敗戦を見越した1945年以前に、莫大なる金額が、日本赤十字社を通じてスイスの機密口座に移送されたと云う史実に触れれば、此の程度の不条理は為して当然との見方は否定出来る由もない。但し、其れは「天皇家」によるもので無い事は、敢えて云う必要もなかろう。