日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆猫に小判、国会議員に社会正義

 どの方角から眺めて見ても、正義人を演ずる検察官(司法権)の手だけではどうしても憚られる、所謂、誣告を素にした冤罪、乃至、でっち上げ事件の貶め劇の幕開けは、合法の名の下に私刑(リンチ)集団として生み出された検察審査会が、反正義に手を染めたく無い彼等検察官の意向を受けて、斯かる代替の貶め劇を担うのだが、小澤一郎氏に対する不条理劇は閉幕する事無く、遂に第五回目を向かえて終った。

 前代未聞の不条理裁判劇とでも云うべき第五回目の公判審理、即ち、政治的指導者小澤一郎氏、或いは、政権奪取に向かいつつあった政党の民主党と云う、所謂、旧権力者側にとっては忌み嫌うべき存在の両者を標的にした、誣告の手段を借り、威を翳して強力に排斥を画策推進して来た藤原司法宮の検察庁、其の最前線に立って、小澤一郎氏と其の陣営を吊るし上げ、わざわざ一本の線で繋がる政治的冤罪事件を遠くの地で作り上げ、即ち、「村木厚子女史事件」を作為し、法廷へと引き出しながら、検察庁自身に因る作為から成る不正不法行為が、民間人達(朝日新聞記者と科学技術者)の手で白日の下に晒され、今や、不正不法の実動部隊の実行行為者としてトカゲの尻尾切りに遭い、受刑者として獄中に留め置かれ、時間の経過のみを俟つ件の前田恒彦元検事から受けた生々しき取調べの遣り取りが、小澤一郎氏の元秘書大久保隆規氏に拠って、証言として語られたのである。

 大阪地検特捜部から、村木厚子女史事件に精力的に携わった前田恒彦(元検事/現受刑者)を敢えて東京地検特捜部に召喚し、大久保隆規氏貶めの取調官に従事させた上級検察庁、其れはまさしく、村木厚子女史事件と一本の線で繋がるもので、所謂、政治的(冤罪)事件作りの本丸への入り口となる筈だったのだが、現受刑者である元検事前田恒彦の不注意に因って、村木厚子女史事件そのものが立ち消えとなり、組織検察庁そのものに国民の不審の目が一斉に向けられたのである。

 要点:大久保隆規氏の今回の証言によれば、取調べに当たった当時の前田恒彦元検事(現受刑者)は、検察官の須らくを統括し管理する最高検察庁の長である検事総長(当時:桶渡利秋)の官職と名前まで持ち出し、(検察シナリオを若し)認めなければ、小澤一郎氏関係先への家宅捜査のみならず、小澤一郎氏の逮捕まであるよ、とのニュアンスを以って(大久保氏の正義心を)抑え付けられ、(不本意ながら)調書に署名をして終った、と述べたのである。

 何が不正義で不条理であるかは、此れ以上言う必要もあるまい。

 折しも、此の日(11月30日)に出た大きなニュースは、事件の性格こそ違うが冤罪事件、即ち、25年前に福井県で起きた女子中学生殺人事件に対する「(名古屋高裁金沢支部に拠る)再審決定」のニュース、即ち、潔白の無実を逮捕直後から延々と主張しながら、また、第一審では無実に在る事の正当性を下されながら、検察官に因って偽証を誘導された証人(複数)の証言を採り入れられた第二審では、無罪を破棄されて逆転敗訴に至り、不条理にも、最高裁への判断申請は理由なしとして認められずに門前払い、七年の(誤った)刑期に服した、其れは、冤罪を被せられた事に因る不条理裁判劇の一つであり、無実に在る事の反証を地道に求め続け、且つ、諦めずに、不法行為者である司法権と戦い続けた一市民前川氏に拠る、軽くなど有る由も無い当然の勝利なのである。

 何と此の国は、誣告、或いは、貶めの作為を以ってする、冤罪、でっち上げ事件の多い国で在る事か、人に拠っては、冤罪が冤罪として確認されただけでも開かれた国で在る事を明確に示していると云い、優れた法制度、或いは、法体系が確立、公平公正を以って運用されている其れは(逆説的な)証左であるとも言うが、果たしてそうなのかは大いに疑問を残すところである。今もなお、冤罪で在る事を確信して戦い続け、苦しみ足掻く法廷戦士は数多く居るであろうし、即ち、東電女子殺害事件で犯人とされ、今もなお不条理なる冤罪と戦い続ける件のネパール人、マイナリ氏も其の一人である事を忘れてはならない。

 交通事犯を除けば、年間二百七十万件にも及ぶ(刑事)事件を発生している日本社会、良質性を求めて生きる道々の民にとっては極めて残念ではあるが事実は事実、だからと云って、社会正義の顕現者であるべき司法権の行使者までが、そちら側に与してはならない事は言う迄もない。

 近くに在っては、とうとう最後まで、冤罪とは認められずに最終審を以って服役を余儀なくされた鈴木宗男氏の事例や、0.1%と云う奇跡にも近い原告側(検察庁)のボロ出しで、辛うじて冤罪を免れた村木厚子女史事件や、足利事件で冤罪である事が立証された菅家利和氏に対するもの、更に、布川事件で冤罪に因る無罪が確定した杉山氏と桜井氏に関するもの等々、此処一二年に於ける、所謂、官憲主導の冤罪でっち上げ事件の露呈は目に余るものがあるが、冤罪の侭に付され、或いは、今もなお冤罪とでっち上げ事件に苦しみ続ける人々に思いを馳せれば、法制度、並びに、法体系を律する司法権の、其れは良質性の証左である等の言い回しに同調する事など出来るものでない事は明白、況してや、現に為されている、小澤一郎氏と其の陣営に対する誣告に基づく冤罪でっち上げ事件と、私刑裁判の不条理劇を直に見させられれば、現行の司法権が、国家社会正義の顕現を遍く実践し得る組織である等とは、欠片も見えない事を知り置くべきなのである。

 立派の一語に尽きるであろう当該人間の仮面を剥がせば、強欲にどっぷりと浸かる三権を掌握する権力者群の顔、また、顔が在り、常態的に彼等の遣る事、即ち、作為或いは不作為を以ってする貶めはお手の物で、今に始まったことではなく、其れこそが古から延々と続く、排他的権力が織り成す常套的とでも云うべき不条理行為ですらあれば、表舞台に炙り出された司法権に因る僅かな冤罪事件の暴露をして、良質性の現出と見るのは時期尚早のもの、斯かる権力の根源に降り来たり、膿の湧き出づる大元の巨悪を絶たなければ、道々の民が求める良質性等は画餅に帰する条理でしかない事を、道々の民自身が肝に銘ずるべきなのである。

 大元の巨悪とは、国家権力を今もなお不当に操る者、即ち、政官財学の頂上に位置する、あの日本を駄目にした藤原一族末裔の事を言い、彼等の差配下に在る第三帝国官僚政府、中でも、宮内庁を一とし、財務省、外務省、文科省、更には、検察庁警察庁等々で、組織活動に影響力を揮う高級官僚群、所謂、傀儡子群を総称して言うのである。

 小澤一郎氏と其の陣営に対する、明らかな「不条理裁判劇」一つすら撃破出来ないでいる民主党員、政治資金の使用目的を、バーやキャバクラでの消費散財をして政治活動とし、自らの役割は挙手起立要員と認識しているだけの”懲りない面々”、旧政権に在った自民党員と変わらぬ行動態様にもあればむべなる哉、社会正義の顕現を民主党全体に求める事自体が無理難題の押し付けなのであろう。