日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆天皇(家)の御祭事、改変の御決断も天皇(家)に帰属する。

 天皇陛下御自身の御心境の吐露とでも言うべき、所謂、天皇家の長として決するべき国事行為の執行と責務に関わる御意思、並びに、伝達が、此の2016年8月8日にビディオメッセージを通して発表され、放映された。

 基より、天皇陛下御自身に拠る、「生前退位」に関わる直接にする御言及は、皇室の在り方等を定めた「皇室典範」には特に定められていない為、避けられもしたが、基より、斯かる問題は、時の国政を担う自民党自民党総裁等が、主体的に動いて決めるべきものではまったく無く、また、メディアに拠っては、須らくは国民が決めるべきものであると断ずる所も有るが、否々、本来の形からすれば、天皇家に拠る御議論の中で為される、事案の決議に基づく下命を承って、然るべき対応を為す国民組織(現状に於いては皇室会議等)へと落として移行、斯かる組織に於いて、適切なる言葉での法制化の準備を押し進め、新たなる皇室の仕組み、若しくは、制度として、天皇(家)の追認を得た上で、「皇室典範」等に追記すべき法律と為すべきが正統では在るのだろう。

 我等道々の民の長として敬愛させて戴き、尊崇させても戴き乍ら、尚且つ、畏れ多き存在として、我等道々の民の胸の奥深くに常に坐して居られ、実像としても輝き、拝礼させて戴いても居る、天皇陛下皇后陛下の御存在、基より、天皇家(陛下)の直接にする、皇太子(並びに妃)を一とした、親王内親王、或いは、孫殿等の、所謂、天皇家を構成される方々一人一人に対しても、深く敬愛の念を抱かせて戴いて居りながら、天皇(家)の御心労には何一つとして目を向けて来なかった我ら赤子たる道々の民、深く反省するところです。基より、道々の民の一人として言わせて貰えば、天皇家に対する我が想いには、何処か不都合で窮屈なる部分が存在し始めていたのも事実で、特に、此処十数年と言うもの、斯かる不都合で、且つ、窮屈なる部分に関わる明確な形での原因等が、徐々に、垣間見えてい乍ら、中々にして明言する機会が無く、当欄の中でも、少なかったと言う事にも尽きる事を、先ずは、述べて措く必要は在るのだろう。

 首相安倍晋三自由民主党の主流派は、現行日本国憲法を指して、”戦勝国より与えられしモノである”と、党創建時より言い続けた先人に倣って修正を主張、即ち、、安全保障政策の正しき運用の為にも、現在の憲法に謳われる、所謂、我が民族体をして、現行憲法を以って例えて言うのであれば、両手両足の、健康体からの切断を是とする不条理なる宣言を以っての定め、即ち、憲法第九条の条項須らくは、健康体に生まれながら、健康体で在るが故に、敢えて、四肢をして切断下に措かしめて当然とする様なものと理解し、然るに、民族が健康体に生まれたら、男も女も、必要なる喧嘩や戦争に対処し応じる為にも、健康体に生まれた民族の四肢は切断等せず、健康なる頭脳や身体ともどもの発育下に措かれなければならないとし、故に、与えられし実体的不条理下の憲法は、即刻にして改憲を為し、四肢が在って当然の憲法と為すべきである、と言い続けているのだが、其処まで言うのであれば、憲法第一章(第一条〜第八条)に掲げられた「天皇(家)」に関わる須らくの条項をも、与えられしモノとして忌避を主張、見直さなければならないと、憲法九条の改正同様に訴えて然るべきでは在るのだろう。

 憲法第一章に関しての不都合は何一つ無いとして、宮内庁は勿論の事、現安倍政権に至る歴代政権も認識を薄くし、また、関わりを惧れてか、若しくは、口の閉じを強いられてかは知らぬが、問題そのものを見過ごしにしている様にも見えるが、現安倍政権に限って言えば、懐刀とでも言うべき私的側用人たる主要ブレイン群の多くが、シオニストユダヤ系大財閥資本家群に繋がる、日本民族一群以外の異民族群に帰属しているが故のもの、そうでも無ければ、安全保障政策に限って為す改憲の熱望や、通常法を以って替える、違憲状態に在る自衛隊の行動拡大等は、恐らく、日本人のブレイン群だけでは為し得るべくは無かったもの、即ち、自衛隊そのものの存在も去る事ながら、天皇(家)に関わる、明確に存する、日本民族文明文化が本来に於いて求める、戦前と戦後の憲法比較に於いても明らかな、形態的、並びに、実態的齟齬に関わる問題に付いても、改憲の要有りとして訴えるべきが、政治家としての筋道では在ったのだろう。勿論、旧帝国憲法下に天皇家をしてお戻り頂くと言う意味等では無く、況してや、天皇家をして、国家国民の為にのみ働き続ける国家の長たる存在に措かれた侭に我慢して戴くのでは無く、本来に於いて在られるべき存在たる、即ち、日本民族の文化文明を創造したり、若しくは創成されたり、はたまた、斯かる日本の培ってきた民族条理を以って、子々孫々をして良質なる道を形成しては与え、若しくは、支え、向かうべき将来の日本民族の道標を掲げては照らすべくの、精神的、且つ、実体的民族の長としての役割を、真っ先に為して戴くべきが、日本民族が等しく、且つ、畏れ多くも、考え望んでいる思念には在るもの、基より、其の前提たる、天皇(家)にとっての、人間的、社会的、国家的なる存在、並びに、権利や義務に関してもまた、日本人の一人一人に与えられるべき「自然権」等が、過不足無く、天皇(家)にも、共有して戴ける様、国家国民が創りし、原理原則としての約束事(法律)を取り揃えて置くべきが、立憲君主制を謳う日本民族国家の条理では在るのだろう。

 通常法(皇室典範)に組み入れる事で対処可能な現状に於いて、附則としたり、若しくは修正を以って追加したりも可能で在りながら、所謂、当該法規範の改訂をすら遣らない現政権には、帰属すべき国籍が明確には認められずのもの、基より、日本の文化、文明の本質が一つとして垣間見えずに在り、また、現政権には民族の魂すら入っていないが故の空虚さに因るもので、日本人の籍を持つ、押し並べての彼等権力者一群の思考が、余りにも政治的に偏り、彼等の<主>たる、シオニストユダヤ系大財閥資本家群の主導する、一億二千六百万人日本民族の総奴隷化、乃至は、人間家畜牧場への追い遣りを担う役務として、言われるが侭の政権運営をこなしているからでは在るのだろう。

 天皇(家)、基より、日本民族の一員に在られる御存在であり、日本民族イコール天皇家の一員でも在るのだが、其れでも尚、天皇(家)は、古より日本民族としての文化や文明、乃至、習俗や慣習をも創始創建されて来られた唱道者であるのみならず、現状の日本文化、文明の発露、並びに、礎ともなられる御存在で、家にたとえれば、大黒柱ともなる御存在には在られるもの、比喩こそ上手いとは言えないが、何事に於いても、天皇(家)は、日本国家乃至日本国民をして良質に、且つ、健全に牽引指導されて来られた御存在、過去に於いては、出来の悪い我等赤子たる道々の民の撥ねっ返りが素で、幾度かの辛酸を味わわされもした事は言う迄も無く、今また、無風状態に在る事を良い事に、国家国民は、就中、国民は、白髪も増えし自らの両親に対しての思い同様、親は幾つになっても健康な存在であって、目の前に常に居て、甲斐甲斐しく動いていて呉れる存在であるかの如くに錯覚するのと同様に、天皇(家)をして、健全無比なる御存在として見続ける其の安易なる看過、即ち、天皇(家)に対する慮り無き見過ごしは、赤子たる我等道々の民の声を上げぬ事に因る責任大と為す所、換言すれば、我等道々の民の代表たる政治権力者に因る不作為が為さしめるものとも言えるのである。

 何事に拠らず、新たなる「法」を以って律する事で、須らくを良しとしてきた敗戦後の日本社会、基より、其の当時に於いては已む無きものとして受け容れもし、且つ、問題として現出するものを優先的に取り上げ、修正や改正、更には、新たに律する法を以って良しとし、整備しては来たのだが、殊、天皇(家)に関する事に関しては、基より、畏れ多い事に相違は無いが、其れを良い事に、道々の民の代表たる政治権力者群は、諸議論を避けて来たのであろう。即ち、天皇(家)の事は、須らく、天皇(家)が御決めになられるのが大事で在る事さえ、有耶無耶にした侭に据え置くのは、我等道々の民の行き届かぬ所で在り、立憲君主制国家体制に在りながら、且つ、法治国家としての体制をも維持する我ら道々の民の無責任と言うものではあるのだろう。

 天皇陛下直々に、重い御言葉を発せられる事に対する責務は、当然の事として、配慮も一切せずに遣り過ごし、且つ、放置した、我等道々の民の責任であり、其の道々の民の代表たる政治家であり、仔細をよく知る存在に在る「宮内庁」高級官僚群、と言う事にはなるのだろう。風評が流された時点で、全否定に走った「宮内庁」の存在等は、不敬でしか無いと言う事にはなるのだろう。

 御発言の賜りを契機に、赤子たる我ら道々の民は、即ち、道々の民の代表たる全ての政治家等は、天皇家に関わる諸事を法令として定めるに際して、原則に於いては、天皇家が御決めになられる事を先議として受容すべきが筋で、其の後に法制化へと移行さすべきもの、基より、「生前退位」に関わる問題にせよ、男系、女系等を家長へと迎える「皇位継承」問題に関しても、先ずは、天皇家に於いて為されし御決断を基に、「皇室会議(等)」へと斯かる御決断を移して審議、御決断の内容に沿った法制化への文言を組み立て、最終的には、国会の立法府へと送り込み法制化を諮るべきではあるのだろう。基より、予算も加味しなければならない法案の組み立てとなる以上、立法府を通す事に不都合は無い筈である。

 現内閣等は、天皇(家)の「生前退位」問題に関し、国会等に於いて審議を開始するにせよ、早くとも秋口の十月からであるとし、但し、法制化は短時日に為される事も無いと明言もするのだが、其れこそが不穏当なる発言と言うもの、天皇陛下御自身が、態々、ビディオ映像を以ってではあるが、我ら道々の民の、力無き国民に向かって御言葉を発せられ、御希望とされている状況下に在って、首相安倍晋三は、早くとも一、二年は掛かるだろうとも示唆して平然とするのだが、有り得ずのものは言う迄も無き事、御希望条項が明確になっている以上、難しい事では無く、短期間で法制化すべきもの、即位式に関わる交代等の儀式(簡素化)は、天皇家に於いて決すれば済む事では在る。安倍晋三個人に、法制化引き伸ばしの権利等在る由も無く、勘違いをしてはならない。況してや、あの日本を駄目にした藤原本宗家一族の末裔が巣食う、宮内庁等の言い成りになってはならない。

 此処は、安倍晋三も首相として加わる「皇室会議」が其の意を承る形で事に臨み、法案化を推し進めるべきであろう。事は急を要するもの、時間の引き延ばしは赦される事も無い。