日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆時代錯誤の認識、左翼と右翼

あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が巣食う藤原司法宮から、左翼社会主義政権とアジられた菅直人民主党政権菅直人の何処が、また、どの政策目論見が方向的に左翼なのか皆目検討が付かないが、恐らくは、菅直人民主党政権を街頭演説でアジった張本人でもある、藤原司法宮の政治的前衛を担う元首相麻生太郎自身をしてすら判らず、基より、思い付きで云ったまでの事だろうが、其れはまた、自らの政治姿勢を右翼と信じ込む其の時代錯誤の曲解の対比に於いて、そう揶揄したかっただけの事でもあろう。其の口の軽さに於いては故近衛文麿首相と引けをとらない元首相の麻生太郎天皇家にとっては迷惑至極な藤原北家の面目躍如と云ったところではあろう。

 右翼も左翼も突き詰めれば、思想と其の行動との間に於いて、進行過程に於ける明らかな手法の乖離は見られても、行き着くところは一緒と云う場面が数多く認められてもいれば、右翼左翼の区別にさしたる意味はなく、また、共産主義理念を以って国家社会建設を成し遂げたと錯覚したソビエト連邦を一とする社会主義国家集団が、僅か八十年余りで共産主義国家社会体制に総崩れ現象を惹き起こし、国体に未だに共産主義理念が残る僅かな国家群でさえ、既に独裁国家体制に脱皮し移行してもいれば、共産主義社会体制なるものは、幻想と錯覚の如何なるものでもなかりしもの、左翼と云う旧概念を其の侭に区分けして使用し、立憲君主制を国体の基盤とし執政を為す民主党政権を腐してみせる何ぞは、正鵠を射ずどころか、時代錯誤の言葉の弄びでしかなく稚拙に過ぎるもの、若し旧公家を自負する麻生太郎が、民主党菅直人政権を叩きたいだけであれば一向に構わぬが、真剣に国家の現状を憂い、菅直人の執る現実主義を憂いてのアジであれば、斯かる旧概念を用いて大衆を煽るのは、自らの政治的狭量さと思考力の停滞振りを街頭演説に足を止める聴衆に知らしめるが如きもの、基より、ほめられた演説で在ろう筈もなければ、現在に至る千三百年にも亘って延々と日本を駄目にし続けた彼のご先祖様、即ち、藤原一族の祖、百済系の王子豊璋(中臣/藤原鎌足)に対して、或いは、藤原一族の皇室に絡み付く原形(摂政関白等の執政手法)を造り上げた鎌足の子、即ち、女帝持統天皇を自由自在に操ったばかりか、次から次へと子女を天皇家に送り続ける藤原腹を確立、栄華を極める素をも確立した藤原不比等のご先祖さまに対して、言い訳も申し開きも出来まい。精々が、への字の口にチャック、慎みなさいと云われるのが落ちである。

 あの日本を駄目にした藤原一族の政治的口軽麻生太郎に、左翼社会主義政権とアジられた菅直人民主党政権、恐らくは、麻生太郎にとって、彼菅直人の歩んだ政治史は、草の根市民運動を皮切りに始められ、政権の頂点に立つ其の玉座に就くと云う、所謂、無一文の貧乏政治活動しか為せなかったと云う見下しに拠るものであろうし、即ち、日本のマザーテレサとでも称すべき婦人活動家の故市川房枝女史に篤く師事した、其の社会主義的政治活動の色彩を以って、その様なアジの対象とされたのであろう。だが半世紀以前の社会とは異なり、様々な国内外の情報が、其れも大量に、且つ、瞬時に、地球の隈なくにもたらされる現状に在って、また、資本主義概念ですら、個から団体、更には、国家と云う単位にその活動主体が多様性を見ている現代社会に於いては、左翼右翼なる分別は、着物を着るか洋服を着るかの外見的相違と概念の選択肢が在るだけ、常態的政治活動には殆ど意味を成さぬもの、実体的執政に於いてもまた然りで、何等の役にも立たない其れは区分けでしかないのである。

 即ち、アメリカ合衆国は、独裁主義を排除し民主主義を植え付けるとの大義名分を掲げ、様々な異国に軍隊を派遣しながら、斯かる軍隊派遣の真相と戦争惹起の実態はと云えば、当該異国に埋蔵する石油ガス資源や、金やウラン等、鉱物資源の排他的領有、即ち、盗賊行為に軍隊派遣の目論見が在ったり、はたまた、アヘンやマリファナ、ケシやヘロイン等の諸ルートの押さえであったりの、所謂、国家掛りの不条理行為に其の目論見があったとは、当の麻生太郎ですら気付いてはいないと信じたいが、少なくとも、麻生太郎が、左翼社会主義政権との言葉を以ってアジった菅直人枝野幸男だけは、斯かる不条理の実情を知る事もないのである。何故に、彼等二名が斯かる米国の不条理政治活動を知らないと断言出来るかと云えば、若し知っていれば、沖縄県を一とする百ヶ所にも上る日本列島の隈なくに在する米軍基地の居座りを容認する事はなく、沖縄県民に課せられた其の被差別性を黙過し続ける等、如何に現実主義者の二人とは言え、到底適わぬ不条理容認の仕儀だからではある。

 立憲君主制を国体に擁してさえ、或いは、独立主権国家日本を標榜してさえ、未だに手足をもぎ取られているとの幻覚に陥り、もぎ取られた其の手足の代わりは、アメリカ合衆国を以ってしか代替出来ないと言い張る歴代の執政者群、此の方がよっぽど異常な物言いであって、旧政権を担った自民党と現政権を担う民主党が、ともに変わらぬ其れは米国に対する立ち位置の様にも見えるのだが、旧政権の自民党と政権を現に担う民主党との明らかな相違は、自民党は其の主でもある、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が操る、所謂、第三帝国官僚政府の云うが侭、為すが侭になり、また、其の藤原一族の末裔はと云えば、我が道々の民の長に在られる天皇家を不敬にも、皇居の門扉を閉ざして道々の民を寄せ付けず、自らは新たな主と崇め奉るアメリカ合衆国、即ち、シオニストユダヤ系大財閥資本家群に絡み付いて離れぬと云う極め付けの反日本民族姿勢を示すのだが、現政権を担う一方の民主党はと云えば、道々の民同様に、日本民族の「主」は今上天皇であり天皇家、もとより、アメリカ合衆国でもなければ、シオニストユダヤ系大財閥資本家群にも在らずは明快なる党是の理、小沢一郎鳩山由紀夫がともに慧眼を放ち続ける間は変わらずのもの、自民党との大きな相違ではある。

 「市民が主役の社会実現」を標榜した菅直人を、左翼社会主義政権とアジった麻生太郎、自身が目指した国家社会体制がどうであったかと云えば、小泉純一郎の執政とは似て非なるもので、即ち、小泉純一郎の政治姿勢は、寄り付く「主」を麻生太郎と同様に、シオニストユダヤ系大財閥資本家群に置きながらも、政治そのものは政党政治を以って推し進めたが、麻生太郎はと云えば、彼の氏族が巣食う、所謂、宮内庁に其の司令塔を置く第三帝国官僚政府に、国政の須らくを委譲しようとさえしたのである。斯かる自民党政権の政治姿勢は他力本願の事大主義為政に、姿勢と活動の実体を窺い知ることは云う迄もないが、菅直人を擁して執政を為す民主党政権は、目下のところ、三人(小沢一郎鳩山由紀夫菅直人)が三人とも、自民党が陥っている他力本願の事大主義為政に倣っていない事だけは確かで、党首就任以前の政治条理に関わる彼等三名の著書や言動からも其れは窺い知れるところである。

 それにしても、左翼であるとか右翼であるとかの言葉をとんと耳にしなくなった昨今の日本だが、基より、新たな共産主義理論が、欧米の複数の思想家に拠って見直され、且つ、執筆されてもいる現在には在るのだが、斯かる共産主義社会建設思想が実体的にも立ち枯れとなり、また、一時代を支配した思想として形骸化していく中で、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔で政治的前衛を担う旧公家出自の、麻生太郎の口から、斯かる「左翼」なる言葉が菅直人政権に浴びせられ、出て来るとは露ぞ考えずのもので、奇異と云えば奇異にも感ずるが、藤原一族の末裔もまたシオニストユダヤ系大財閥資本家群と同様、自らに他をまつろわせるのであれば、斯かる他が資本主義者で在ろうが共産主義社会体制にあろうが、はたまた、独裁主義軍事国家であろうが、国家形体は一切問わずのもの、十九世紀末以来、欧米を策を以って牛耳り、有色人種大陸群を植民地化し、ロシア革命を惹き起こしてはソビエト連邦を建設、毛沢東を以ってする共産主義社会国家建設を篤く支援、立憲君主制国家を政体とする日本を、姦策を以ってパールハーバーに誘き寄せ、原爆投下の殺戮実験を平然と為したシオニストユダヤ系大財閥資本家群の事、政治思想と実践行動には矛盾も糸瓜も無きもの、其の彼等を主と崇め奉る藤原一族末裔の麻生太郎が、斯かる政治思想の明確なる分離、乃至、概念の認識などどうして必要で気になど掛けようぞ、「左翼」と云う言葉に潜む昔ながらの鈍い響きを、浴びせ掛けを以って楽しんでいるだけに過ぎないのである。

 来る参院選で、民主党が其の過半数を占めるかどうかは実に微妙なところだが、良質性を求める我ら道々の民にとってみれば、現行の菅直人の下の政権布陣は、ややもすれば弱々しく映り、且つ、鳩山前政権とは全く異なる、即ち、現実主義への執政手法の転換に因り、行財政の大改革は一時頓挫するかの如くにも見えるのだが、其れはまた、第三帝国官僚政府に対する完璧なる白旗揚げの降参をすら意味するのだが、菅直人の首相就任後の言動を以ってすれば、未だ完全なる降参と看做すには時期尚早、とは言え、斯かる行財政の大改革も、また、沖縄米軍基地移転問題もともに、不明瞭なる国家理念の不宣言をすら伴えば、我ら道々の民は其の侭に、更なる愚民化社会へと押し流されるだけでしかなく望ましからざるもの、参院選後の八月末までには策定するとした、所謂、普天間基地移設に伴う辺野古崎への基地建設計画は、よしんば、菅直人政権が今次の参院選過半数を占めても占めなくても、我ら道々の民の自主自決、並びに、独立自尊を決する民族の大問題として浮上させねばならずのもの、其れは、九月に於ける民主党の党首改選選挙に於いて改めて決せられるものとなり、行財政の大改革と日米安保の見直しと云う国家そのものを見直す契機、所謂、岐路とし、また、させねばならないのである。