日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆指示待ち族と小市民

 殺処分にすれば、種が断絶する宮崎牛六頭の保存を求めて政府と対立していた東国原県知事、中々にして気骨在る為政者ではないかと見ていたが、県並びに国全体を考え、断腸の思いで殺処分の行政指導を受け容れ、飼育主に通知し、了解を得たとの表明を聞くに及んでの感想は唯一つ、東国原もまた菅直人と同様に小市民の一人、口ほどに気骨在る者ではなく、自民党を看板にして中央政界に打って出たにせよ、精々が一人の挙手起立要員で終わるだけ、国家を条理に率いる等とうてい無理、斯かる白旗掲げの即断しか為せぬ者がどうして国家社会を率いる良策など適えられ様ぞ。如何に口蹄疫に汚染された可能性の高い宮崎県とは云え、人間に対する感染も害もなく、況してや時が経てば、口蹄疫は自然に治癒するとの論を信ずれば、例外を圧してでも種の断絶だけは選択してならずのもの、また、実態としても、厳重なる隔離管理下に置いて防疫検査体制を敷き、今に至るもウィルス罹患が認められていなければ、東国原知事の執るべき姿勢は、政府に対して為すべき「特例」事項の要求と、政治生命を賭して為す例外の獲得ではあったろう。

 特例を認める事は一切ないとの政府判断は、農水省を一とする関係省庁としては当然に使用する常套句なのだろうが、特例、或いは、例外は世の中には数多く在るのもまた事実、口蹄疫が人類滅亡の源になるとか、日本列島全体を危機に晒すであるとかが認められない限りは、救えるモノは救うべきが条理、例外は一切認められないとする門前払いの裁定は、現下の日本社会がまさしく陥っている、異常な迄の潔癖症候群の表われ、御し難い、其れこそが”右へ倣え!”への、まつろいの強要ではあるのだろう。返すがえすも東国原知事の受け容れ判断、即ち、種牛六頭全部の殺処分に因る種の断絶は惜しまれるし、且つ、悔やまれてならない。

 民主党菅直人代表は、参院選惨敗後の記者会見だけは確かにしたが、二千二百万人の民主党支持者に向かっては、総括も検証報告も未だにせず、あろう事か、間接的に、鳩山前政権で幹事長の座に在った小沢一郎氏に対して一切の責任転嫁を為さしめると云う、潔さの無い無責任さだけを露呈しているのである。即ち、民主党静岡県連の牧野聖修衆院議員)等の成り上がり者の利己主義者等を用いて、政治と金の問題で此の選挙は負けたのであると迄断言させ、菅党首と党員は、即刻、小沢一郎に離党勧告を突き付けるべきであるとも吠えさせ、今次の参院選敗退は、一にも二にも小沢一郎独りに原因は帰せられるもの、敗退の責任は菅直人内閣には全くなく、小沢一郎の離党を以って須らく総括する事が可能であると迄言わしめたのである。

 彼の様な、所謂、潔さが欠片も見られず、あまつさえ、責任転嫁を正当化する子供染みた振る舞いをする族を見ると、残念であるのと同時に、民主党もまた秀逸なる党員の存在に欠け、劣悪なる存在に党員が在る事をも知らせて呉れるだけ、道々の民を騙し続けた自民党と党員であれば未だしも、民主党為政者群の中にも、自民党に負けず劣らずに存在する、斯かるノーテンキな党県連の内部実態を見せ付けられると、民主党に一票を投じた静岡県民としては、実に暗澹たる気分にもなるのだろう。

 牧野聖修なる、もちろん此の他にも多数いるが、民主党員として愚態を晒して平然とする、所謂、恣意的で利己主義的連中が総じて云う、小沢一郎が幹事長執行時に決した選挙区(複数人区)での、其れは、複数候補者の擁立を決したが故の、民主党の惨敗結果が在るとの結論付けは、選挙結果を具にみれば的を射ず、牧野聖修に代表される、小沢一郎に向けた批判の矛先は全く中らずのもの、複数人区での共倒れなど全国の何処を見ても認められずのもの、敗退に至ったのは唯一一人区に起きただけ、斯かる選挙結果の事実判断からすれば、牧野聖修等の言い分は論外で的外れ、此の者の仕切る選挙区、所謂、静岡県では、戦前から一人の候補者で十分とし、二人の擁立は不要、共倒れの可能性すらあると断言して小沢幹事長に歯向かっていたのは他でもない此の牧野聖修、然るに、静岡県での複数人選挙区結果はと云えば、新人の中本奈緒子は残念ながら落選したが、現職の藤本裕司は当選、牧野聖修の共倒れ必至の指摘は杞憂に終わったと云う事でしかないのである。付言すれば、当選/落選両名の票を足せば七十万票弱を獲得したのが民主党であって、唯一人を擁立した自民党候補者の五十五万強を遥かに凌ぐ当該民主党候補支持票、消費税導入を俄に採り上げられて選挙戦に水を注されたにも拘わらず、静岡県民から、紛う事なく民主党の二名の候補者にに対して与えられた支持の事実、此れを無視しては駄目、其の深みと重みをこそ、この成り上がり者の牧野聖修は理解しなければならないのだろう。

 六十代も後半に差し掛かりながら全国津々浦々を隈なく回り、起伏する社会の実態を漏らさずに掴み、人心と社会動向を理解掌握し続けて来た政治家小沢一郎と、全国行脚など組合活動以外には為した事のない成り上がりモノ牧野聖修を、同列に並べて比較しても詮無き事だが、如何な口先男でも、多くのマスメディアは同等に取り上げて呉れた事をこそ、六十五にもなった牧野聖修は感謝すべきである。よしんば、今次の参院選民主党を支持して呉れた静岡県民が、次回の衆院選では牧野聖修に一票を入れずとも、マイクを向けて呉れた事だけは決して忘れてはならない。基より、マイクに向かって言った軽薄を以ってする言葉と其の愚かさ振りもまた、当然に覚えて置くべきである。

 小市民の域を出ない菅直人もネッキリハッキリで役立たず、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が率いる自民党総裁谷垣禎一ではもっと駄目、また、みんなの党渡辺喜美代表では、党のアジェンダは有ってもクリエート無しでは国家は潰れるだけ、左すれば、ハテサテ誰に国家を牽引する主導者を任せたら良いものかを見渡せば、やはり行き着く先の政治的人材が誰かと言えば、東国の雄小沢一郎か、物部/吉備の雄亀井静香が、現代日本の政界には認められるだけ、今、藤原一族司法宮に、検察審査会に因る手枷足枷で動きを封じ込められている、苦悩を抱える小沢一郎の姿としても映るが、苦悩する必要など更々に無し、閉塞状況下に置かれ続け、事象に対する解決や落着に於いて、潔癖症候群に陥ったであろうと思しき答えのみを要求する、所謂、取り付く島もない日本国家社会の現状を救うには、検察審査会のヒステリックな迄の私刑を求める審査等に関しては、今後、弁護士団に斯かる形式を以ってする裁判は預けて任せ、自らは国家理念の宣言を以って議員再編に動くべきもの、基より、亀井静香と手を組み、民族国家再生に向けての知恵と賢策を出し合うべきこそが肝要ではあるのだろう。

 小沢一郎が党を作り変えて来た事由は、一にも二にも党員の、未成熟の侭で、且つ、育たない、其の指示待ちに徹する無気力姿勢と、政治条理の推し進めに対する党員の、積極的理解の欠如が相俟って、スクラップ/ビィルトを為さしめたものと、今にしては思うのだが、党首が菅直人になってからの小市民的為政への転換と移行は、所謂、小沢一郎鳩山由紀夫が推し進めていた独立自尊を基にする為政手法を全面的に取り下げ、棚上げしていた官僚依存為政を民主党政権に取り戻すと云う、所謂、羊頭狗肉の看板の取り替え、即ち、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔の麻生太郎が執った政権引継ぎと同一手法を、現実主義者菅直人は執ったと云う事であって、此処でもまた党の創り変えは正当化されると云う事でもある。

 政治的転換点もまた見え始めたと云う事であり、勿論、菅直人政権が、ビューロクラシー主導政治に全面的に切り替えた斯かる執政手法を改めない現状に於いては、再編もまた必然とされるのである。