日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆人相、骨相、歩き方で判る指導者

 人相や骨相を以って、人の上に立てる人物であるか否かを判断するのは少々躊躇われもするが、遠慮無しに云えば、戦後政治家に在って、指導者としても相応しい容貌を兼ね備えた為政者が誰かと云えば、佐藤栄作と池田隼人、並びに、首相にこそなっていないものの小沢一郎の、三名には尽きるのだろう。異論を唱える者もまた少なくは無かろうが、基より、此れは私的判断に基づくもの、上記三名に共通する、自信たっぷりの面相は人をして魅せるもので、此れだけでも指導者としては十分に過ぎるのである。勿論、当該三名には政治的指導者としての類似性は多々在るが、外形的に言えば歩き方もまた其の一つ、地に足をしっかりと付けた歩き方は、敵を前にして逃げ出さない事の証左、指導者に付いて行く道々の民にとっては此れほど安心出来る者は無いのである。

  侃諤二千三年七月二十三日<八○一条>を見てみよう。
 <民主党自由党の両党首に拠る合併合意に付いて触れる記事が、各紙面のトップに躍り出ていたが、政権担当を期し小異を捨て大同につく事は、基より為政者でもあれば当たり前のもので、国家国民を条理の道に導きたいと思考する者であれば、小異を捨て去る等当然のものとしなければならない。顔の見えない民主党の中で、イニシアティブを奪われ兼ねないが故に合流には同意せずとの主張も少なくはない様だが、権力基盤そのものが整ってもいない段階での不同意など、村社会に於ける駄々の捏ねにも等しく、意味は全く為さない。 権力全体を握れない政治家が如何に条理を唱えても犬の遠吠えにしかならない事は、何十年もの間、人生の或いは為政の飯を喰った人間であれば、切実なる現実を嫌と云う程に思い知らされ、且つ直球のみでは勝負出来ずを、幾度となく学ばされて来た筈だ。人間、十人集まれば十人十色、生まれも違えば育ちも違う、氏素性も異なれば考え方さえ変わって当然のもの、豪腕「小沢一郎」を嫌い、米国のエージェント「鳩山由紀夫」が好みだけでは話しにも何にもならず、基本的為政者の政治姿勢としてはその時点で失格でもある事を、小異を大事にする民主党の為政者達は認識し直すべきではあろう。

 豪腕小沢一郎と謂えども既に齢61にもなる成熟した為政者、自らの驕りと非妥協で羽田氏の首相据え付けを最後に、冷や飯を喰い続けて来たこの9年間の試練は、良い意味で重いものがある。権力外にある者の悲哀と同時に他人の痛み、或いは現与党の八百長為政者に拠る国家理念なき傀儡行政態様を、嫌と云う程目の前で見せ付けられて来た彼でもあれば、性格は変わらずとも為政に対する知恵は更に高まったと見るのが筋である。
 最早小沢氏を嫌う材料は今の民主党にある筈もない。米国議会を占有する両党議員同様、国家国民を牽引する真のリーダーシップを執れる人物は小粒化し、為政者にとって不可欠な、正論の吐きをすら失った日本の議会を埋め尽くす議員群の姿が今にある。質素を忘れ礼節を忘れ条理をすら忘れ、華美を追い求める為に生を賭け、命を米国に預けて良しとする小泉政権を、行政府の最高権者に戴き続け満足する日本国家の現状を、小異を口にする民主党議員はとくと認識し直すのが宜しかろう。現状の政界を眺めれば、或る人は真のリーダーはやはり小泉純一郎であると云い、或る人は石原慎太郎こそ相応しい国家のリーダーであると熱く語る人々も少なくはないが、小泉純一郎は既に底が割れ、米国の傀儡政権ぶりを露呈、「郵政事業の民営化」画策で、シオニストユダヤ系大財閥資本家群にその引渡しも容易になれば、民族資本は倒壊を向かえるだけのもの、一事が万事この体たらく、リーダーはリーダーでも日本民族のリーダーであろう筈もない。一方の石原都知事に付いて云えば、反共の御旗を掲げ、反中或いは反朝を明確にしているが、それはそれで良しとしても、国防の主体者を日本民族の中に持つと云う、主権国家が持つ明らかな自主自決の国家理念を一度として聞いた事はなく、彼もまた国防は米国頼みと云う思いにはあると云う事でしかないのである。更に云えば、国会は馬鹿どもの集まりであるとして議員辞職を議会の壇上で述べ、議員バッジを一度捨てた彼は人間でもある。
 確かに議員の多くには、或いは私を含めて国民の多くには、動かぬ、考えぬ、解らぬ、閃かぬ、突き詰めぬ、条理を求めぬ等々、それらの人間が多々居る事も否定は出来ぬが、であるからと云って国民の負託を請けた代議士が、自らの理想とする体制の在り方と現実体制とのあまりにも開いた段差を認識し、温度差を感じたからとは云え、職務を放棄して良かろう筈もなく、それはそれで認識し一歩下がり、啓蒙に努めて行くべきがリーダーたる者の為す業ではあったろう。馬鹿どもの議員を相手に、これ以上条理を説いても無理との判断で議員辞職をした彼石原慎太郎ではある。都知事で政治に復活し、望まれて国政に関与するのも良いが、小泉純一郎や鳩山兄弟或いは石原本人の様に、米国に可愛がられている人々は、有事に際して、米国と云う最も安全な(?)逃げ場所が提供されるのだろうが、途中で投げ出される日本民族はと云えば、この日本列島を拠り所としてしか生きられない事から来る生活苦、若しくは、あらゆる困難を乗り越えて行かなければならない命運に置かれているのである。基より、日本列島を離れる積りなど毛頭になく、不条理と戦い続けるしか術の無い我ら低レベルの日本民族ではあるが、少なくともリーダーたる者には途中に於ける棄権や職務放棄、不条理に屈する白旗掲げの降参はして貰いたくもないのである。畢竟、小泉純一郎、並びに、石原慎太郎のリーダー足りえぬそれは理由なのである。同じ親米派ではあっても、また、多少の欠点は有っても、日本民族を中心に据えると云う意味に於いては未だ現職議員でもある、橋本龍太郎元首相や宮沢喜一元首相、或いは、小沢一郎氏の方が国家を牽引するリーダーたり得る人物ではあるのだ。 菅民主党党首も漸くとも云って良いのだろう、成熟した為政者にはなりつつある。何を指して成熟と云うのかは、相対する現権力者でもある小泉純一郎との間にある明確な論披瀝の乖離を、従来の彼でもあれば話しにならないとの形で引き下がったものだが、昨今の菅直人は、小泉純一郎の詭弁と欺瞞を指摘するだけではなく、問い詰める迄に至った事は、若干ではあっても為政的成熟に進んだとでも云えるのであろう。未だ、問い詰めには今一歩物足りなさを感じさせる彼の政治力量である事は云う迄もないが、不条理を条理の言論を以って制すると云う事はもとより、政治家としての基本行動であり、何れ追い詰められれば、最後にものを云うのは理性ある条理に基づく理念の差、理念なき者の為す不条理に負ける訳がなかろう。
 党首討論の場で、「ブッシュ政権を危険な政権と断定して、これからの日米友好をどうするのか」と、小泉首相に問われた菅氏、逃げる事はせず、正々堂々と受けて立つべきではあったろう。揉み合う時間がなかったとは云え、返す返すも残念な事と自覚しなければなるまい。「日本国家の理念として、合わなければ正論を吐く迄で、相手にも条理を求めるだけ、友好と阿りに拠る追随を、首相でもあるあなたが混同してはならぬ」とでも云って置くべきではあったろう。また、自衛隊員のイラク国派遣問題に際して、「危険地帯であるか、そうでないか等、知らないものは知らないんだ」との小泉純一郎の国家最高行政権者としての発言に、「すごい答弁だ、開き直りだ、首相は自分を褒めるのが大変うまい、責任転嫁が非常にうまい」と、菅直人は云ったとの事だが、それだけで引き下がってならなかった事もまた云う迄もあるまい。「知らない者が法律を制定し、その知らない場所に日本民族自衛隊員を送る、それは日本民族全体に対する犯罪行為であり、権力の濫用悪用なのである」とでも指摘して置くべきではあったろう。

 日本民族の仮面を被る化けの皮が一枚、また一枚と、自らの言動で剥がれ落ちる小泉首相の現状ではある。日本国家国民、或いは国際社会への条理在る国家としての登場再生を期す為にも、菅直人は、緩めてはならない糾弾の場としなければならなかった事は云う迄もない。
 イラクフセイン大統領の嫡子ウダイと次男クサイの両名の首を討ち取った事を確認、記者会見で発表したブッシュ大統領。新聞の見出しには、元大統領、或いは殺されて当然のものとして取り扱ってもいる記事が大半を占めている日刊紙だが、未だ侵略戦争と体制維持を期すゲリラ戦は依然として続いてもいる事を忘れてはなるまい。当該現状を棚上げにし、元大統領、或いは殺されて当然のものとしてもならないのである。何れ、比類なき軍事力を持つ米英両国軍の占領下に治まるイラク国ではあっても、イラク国民が総意として求めた新たな政権にもない現状では、或いはまた、フセイン大統領の生存すら可能性の高い現在に於いては、「元」の字句を冠したり、殺されて当然との記事内容は不謹慎ですらある。
 侵略戦争大義名分が、フセイン政権に拠る「大量殺戮兵器」の開発とその準備、或いは、同政権に拠る化学兵器を利用した過去の、「クルド民族大虐殺」を挙げている様だが、間違いなくあるとされた「大量殺戮兵器」の残滓すら未だに見い出せず、あろう事か、侵略の当事者でもある米英両国に於いて、それは捏造ではなかったのかとの疑惑すら現実的な問題として取り上げられてもいる現状、更に云えば、米国そのものが手渡したとされる化学兵器利用に拠る「クルド民族大虐殺」に付いても、フセイン政権に拠るものとは断定し得ずとの見方も一方には残っている中で、公正を期する立場にもあるメディア業界が、さも勝ち誇ったかの如く、「元大統領」並びに「殺されて当然」の断定的紙面作りを為すなどは、何処から眺めても米英両国軍に拠る侵略戦争を侵略ではなく、ブッシュがいみじくも云って反感を買った、「米軍は21世紀の十字軍である」との唯我独尊を、メディア各社が共有した様なものではある。
 国際法に於いても、「大量殺戮兵器」の存在の有無が戦争を引き起こす大義名分になどなる由もないのだが、それすら忘れ、右顧左眄しながら大勢に引き摺られる様は、実に見苦しい限りではある。「大量殺戮兵器」の存在、それが戦争を開始する大義名分になるのであれば、極論を吐けば、馬に喰わせる程の核兵器と微生物化学兵器を不断に保有する米国や英国に、如何なる国家も常に戦争を挑む事は許されるとの論理にはなり、また、9.11事件を惹き起こしたとされるウサマ・ビンラーディン組織下の犯罪さえ、正当化される事にもなる。国家行為としては犯罪扱いされず、組織単位では犯罪と看做す等、整合性に全く欠けるものである。刃向かっても敵わない相手であるが故に合法とし、弱小であるが故に「不法」と看做す等、あってはならない詭弁としてのダブルスタンダードではある。
 また、侵略戦争と云う不条理に遭わない為に、国家の尊厳を捨てて迄「査察行為」を受け入れたイラク国。イラク国民を必死に、それも懸命に護ろうとしたフセイン政権、如何にフセイン政権が自己権力保持の為の査察行為の受け入れであったにせよ、結果的にイラク国民を護る事になるのは必然のものではあったろう。侵略戦争を受けなければ、何万人にも及ぶイラク国民の死傷者は出る事もなかったからである。
 国連からの派遣団に拠る査察行為を渋々受け入れたイラク国、当該査察団に拠る査察結果の終了報告書を見る事なく、大義名分にすらならぬ捏造情報を国際社会に披瀝、それを以って侵略に突き進んだ米英両国である。当然の証明として、侵略戦争の目的は、「大義名分」そのものの不存在が明らかにされつつある状況そのものを憂慮し、危惧した米英両国であった事をいみじくも引き出した事にもなる。
 査察行為を受け入れ、尚且つ、大量殺戮兵器の不存在を国際社会に訴え続けたイラク国は、米英両国政権に拠る悪辣な捏造情報を駆使されて迄、軍事力行使の不条理を受けるその一方で、国際原子力機関から派遣されてもいた核査察官を自国から追い出し、そのIAEAをも脱退、更に、大量殺戮兵器でもある「核兵器」の開発と準備は既に為していると公言して憚らない北朝鮮国や、度重なる国連決議には従わず、米英両国から暗黙の諒解の下無償で払い下げを受け、持ち出された大量の核兵器を実際に保有、米国から供給された有り余る武器弾薬でパレスチナ民族に対する虐殺と、奪い取ったパレスチナの国土から民族浄化を徹底して実行し続けるシャロン、勿論彼を擁するイスラエル国を此処では云うのだが、当該両国家の不条理は特例として認める、の米英両国の政治姿勢は、まさに米英両国に拠る恣意的ルール改竄の詭弁そのものであり、二枚舌外交の徹底ではある。基より、大量破壊兵器有無の問題だけで惹き起こされる戦争であると観る者が若し居れば、現状に執る米英両国の軍事力行使の決断をどの様に説明するのであろうか、聞きたい所である。小泉氏も石原氏も論じた事がなかろう。
 米英両国現政権に拠る「偽善」は既に暴露され、両国家の国民すら騒ぎ出している現状をも無視し、日本のマスメディアが小泉首相と歩調を合わせ、「元大統領」だの、「殺されて当然」の見出しの冠し方は、在ってはならぬものである。この様な社会状況に、子供達が敏感に反応するのは当然で、貧すれば鈍すの態様に陥らない方が不思議でもある。二枚舌、三枚舌を持つ者は、口の中を決して見せることもない。
 小泉純一郎などは既に条理麻痺の状態にあり、ノー天気振りを曝け出そうが国民を小馬鹿にしようが、国民は高い評価を与えてくれ、且つ支持してくれる事をすら、彼は既に見抜いてもいるのである。貧すれば鈍すの態様を、いたいけな子供達迄もが大人社会の鏡として写し出し、少女が身に着ける下着や衣服を売って恥じ入らない社会をも作り出し、それを商売として大の大人に売り付ける社会をさえ、大人自身が作り出してもいるのである。欲望を金に変え、金を欲望で生み出す何ぞは何時の世にも見られる習俗の一つだろうが、徹底した不道徳が、此処迄低年齢下するのも偏に、ダブルスタンダードや二枚舌権力社会を許すマスメディアの存在が、大きく寄与している事は疑うべくもない。
 「一兵卒の心境で臨む」と表明した小沢一郎氏、名を捨てて実を取った菅直人氏、両党が合流し数を膨らませるのも良いが、現与党三党を数で上回らなければ合流の意味もない。如何なる党も、国家理念或いは哲学すら顕わしていない状況の日本、解り易い言葉ではあっても、国民に眠っている条理を覚醒させる理念の顕わしは、基より基本中の基本であって忘れてはならないのである。憲法改正或いは存続に対する国家理念の表明は、その試金石とすら成り得るのである。>
 未だに正されていない、シオニストユダヤ系大財閥資本家群が影響力を行使する日本社会と国際社会、国家権力を握った菅直人は、理念を捨てて現実主義に舵を切り、彼等に平伏す場面に至るであろう事は容易に想定可能、基より、歩き方を見れば判断し得る以前に、人相、骨相からも、似つかわしくない事を教えて呉れてもいるのである。