日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆冤罪、誣告の病に罹患した岡田克也

 真剣さを以ってする真面目だけが取り柄と見えた岡田克也蓮舫の両大臣、翳の在る前原誠司や、どことなく胡散臭い千葉県勢の民主党代議士とは異なり、まともな政治活動が彼等には出来るだろうと見ていたが、どうも見方が甘かったようで、少々彼等を買い被り過ぎてもいた様だ。

 先般軽井沢で開催された鳩山家別荘に於ける親睦会に参集した、所謂、前幹事長小沢一郎を一とする百六十名にも及ぶ民主党衆参両院議員の集会に関し、メディアの記者群からコメントを求められた菅直人内閣の岡田克也蓮舫はともに、当該集会そのものに不快感を多いに露わし、岡田克也は聞かれもしないのに、此の九月十四日に挙行される代表党首選挙戦での菅直人の続投と支持を表明、金と政治に絡む、被訴追の可能者は党首選には出てはならないと、小沢一郎氏を暗に示唆した直接批判を為し、一方の蓮舫は、責務を勘違いしたのかどうか、或いは、自らの職務遂行能力を過信したのかどうかは定かでないが、菅直人を党首とする現行体制が崩れれば、民主党の掲げた行政改革は大きく揺らぎ、特別会計にまで切り込む無駄排除の作業は実に困難を極めるだろうとの意向をすら表明したのである。其の侭に聞けば、ともに、民主党を政権の座に就けた道々の民に対する、其れはやんわりとした”脅し”の言葉とも受け取れ、また、そうでなければよいがとも思うのだが、残念ながら、斯かる両名に因る国民に対する”脅し”である事は事実の様だ。前幹事長小沢一郎氏の、確たる存在を畏怖するが故に脅しているのだとすれば、其れこそが忌々しき事態、国家社会正義の顕現者に擬せられた民主党そのものの看板が泣こうと云うものである。聞き捨てならない、其れは岡田/蓮舫両大臣に因る軽率なる発言ではあったろう。真に残念である。

 自民党を、無定見にも、一貫して支持し続けて来た我ら道々の民が、昨夏の解散衆院総選挙戦に於いて、国権の座に居座り続けた自民党を泣く泣く見限り、替わりに民主党に其の清き一票を投じ、結果として一千万票もの大差を付けて自民党を下野させたのは、偏に、民主党の標榜し続けたマニフェストが斬新で優秀、且つ、説得力に富み、其の公約として掲げた須らくの政策を遅滞無く推し進めて呉れるに相違ないとの確信に魅せられて、斯かる一票を投じた訳では毛頭なく、大方の道々の民の判断指標は、何遍となく諭しても、或いは、何度にも亘って復権の機会を与えても、更生出来ずに遊びほうける道楽息子の自民党にはほとほと呆れ果て、此の侭では「家/国家」そのものが破綻し、一族郎党全てが潰れて路頭に迷うとの、切迫した危機感が判断せしめた党選択の変更であって、更生不能自民党を勘当して下野させ、未だ独りだち間際の蒼き民主党に其の白羽の矢を立て、家を継がせる事を決したが如きもの、即ち、民主党の説いたマニフェストそのものに魅力を感じた訳ではなく、鳩山由紀夫小沢一郎の両名が率いる民主党で在れば、紛う事なく国家社会正義の顕現に向けて尽力始動し、自民党の放蕩で蓄積した膨大なる借金と、乱れ放題の家そのものを立て直し、まともな日本の家と家族関係を、彼等であれば必ずや立ち上げて呉れるであろうとの大いなる期待を込めての、其れは道々の民に拠る民主党を選択すると云う苦渋の決断ではあったのである。

 元々が小沢一郎氏と対峙する事で売名行為を謀った、部下一人の命すら救えなかった前原誠司や、胡散臭い存在の千葉県勢の議員連、或いは、足許の政治しか見ようとしない連合静岡の支援を嵩に掛けた牧野聖修等は、何処にでも見られる料簡狭き目立ちたがり屋の為政者として、放置しておいても然したる問題はないのだが、将来的には民主党々首への返り咲きすら求められる可能性の高い岡田克也や、日本国初の女性宰相誕生の呼び声高い蓮舫の両大臣迄が、あろう事か、前幹事長小沢一郎氏を、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が影響力を揮うマスメディアに同調、無節操にも批判者側へと回り、其の事由がともに、「政治と金の問題」を基にする、所謂、小沢一郎氏に絡み付く(白となった)作為的訴追事案を、黒色と決め付けて掛かったとは恐れ入谷の鬼子母神、あまつさえ、犯罪者看做しに徹しての批判の展開とは、大臣発言としては些か信じ難き発言であり、暴言とでも云うべきもの、民主党政権誕生を心から待ちわび、政権誕生時に於ける鳩山/小沢両名率いる当該民主党に、国家条理の顕現をすら俄に期待していた一人としては、政権奪取前から既に政治的エントラップメントに仕掛けられていた鳩山/小沢両指導者を、社会正義を賭して、旧権力者側と対峙して貰いたかったのだが、救うどころか社会正義すら一度として顕わす事はなく、旧権力者側の差配するメディアとともに両名の足を引っ張る政治活動を耳目にしようとは、露ぞ思いも寄らぬ不条理劇の開示、呆れ果ててモノも言えぬ現状では在る。

 確かに、政治的力量不足の岡田克也蓮舫等であってみれば、我が身を賭してまで不条理との戦いは無理であろうとも理解、左すれば、後方陣地に控えて耐え忍び、鳩山/小沢両氏に拠る旧権力者側との戦い振りを見ていて呉れれば其れで良しとすらしていたのだが、此処に来て、耐え忍んで見守るどころか、後方陣地の居心地の良さに酔い痴れ、小沢一郎氏をして犯罪者看做しとする事で、司令塔を置く後方陣地を離れないとし、それも平然と、メディアに迎合して小沢氏忌避の言葉を発するとは信じ難き社会正義、民主党支持者の一人として脳天を直撃されたにも等しきもので、其れこそが聞くに堪えない、聞き捨てに出来ない其れは小沢批判を当たり前とする言葉、後方陣営から前線で戦う味方陣営に向けて鉄砲を撃つかの如き、或いは、天に唾するがかのき、在ってはならない悪魔への魂の売り渡しではあろう。

 小沢一郎氏に対する「政治と金」の問題は政治的エントラップメントそのもので、其の証左は、検察庁に因る二度、若しくは、三度にも亘る「白/無実」の判断が明確に示しているもの、岡田克也がいみじくも言った「訴追される可能性のある、、云々」は、検察審査会の判断を称して云うのだろうが、検察審査会なる存在は、極論を吐けば、作為を持った権力者が、よしんば、為そうとすれば、如何様にでも動く可能性を残す「私刑の執行機関」とでも称すべき存在であって、特に、政治問題に関わる事案に於いては、貶めをすら作為可能な機関とでも云うべき存在にもあるもの、基より異論も在ろうが、斯かる検察庁の二度、三度にも亘る白の判断を、岡田克也は無視し、在ろう事か、検察審査会の動向に重きを置き、斯かるメディアの発するプロパガンダまで借りて小沢一郎氏を排除したい何ぞは、法治国家を唱導し、且つ、尊重するものとしては決して採ってはならぬ決断であり裁定ではある。

 我ら道々の民は、国家社会に蔓延した不条理勢力と戦い、奈落の底へと追い詰められた日本の危機を救うべく立ち上がった、鳩山由紀夫小沢一郎両名率いる民主党を支持したのであって、不条理勢力と手を組み、奈落の底へと再び追い遣る旧権力者側に投降する菅直人や其の一派を支持した訳ではない。社会正義の何一つ顕わし得ない菅直人前原誠司、或いは、長島昭久等に加え、岡田克也までが悪魔に魅せられたのでは最早我慢も限界、小沢一郎鳩山由紀夫には再び前線に戻って貰うか、党を割ってでも、独自のパーティーを創るべしではある。

 侃諤二千九年三月二十七日<1946>条を覗いてみよう。

 <☆小沢一郎よ、政治的不条理陣営とは死を賭して戦え

 「天の声 根強い土壌、、東北、、」と題した、然も、東北六県(青森、秋田、岩手、宮城、山形、福島)に住まう一千万人弱の民が、未だに近代文化すら受け容れず、知的教育も大幅に遅れ、国家条理が未だに行き届いていない辺境の地と民から成り、今もなお原始宗教を尊び、且つ、頭の中も未開発の土人そのものであるかの如くに腐した25日付けの朝日新聞、返す刀で論説、「小沢一郎は党首の座を降りるべきである」と、社説の場を借りて切って捨てた事は、まさに、東北に生を受けた一人としては実に赦し難い暴言であり其れは暴筆、差別と迫害を平然と筆で著す、或いは、東北人に対する蔑みの言葉を以ってする、其れは言論人にあるまじき天に唾する不当なる言い分であって、あの日本を駄目にした藤原一族にも繋がる産経新聞や、読売新聞が為す論旨であればいざ知らず、公正、公平の中立を以って旨とし、社会の木鐸を任じて已まないとまで自負する朝日新聞が此の体たらくでは、麻生太郎の愚政と国権濫用を見逃すのは必然のもので、何れあの藤原一族とともに歩んだ不条理下に置かれた日本へと、国家社会を逆戻りさせるのもむべなる哉、呆れ果てて言葉を失うだけである。
 社会の木鐸を任じる朝日新聞社内にも、あの日本を駄目にした”藤原一族”の踏襲者や信奉者が、少なからずに混じっていると云う事ではあるのだろう。極めて忌々しい条理の退行化にはある様だ。

 麻生太郎が、ぶら下がりの記者会見で、WBC優勝に至ったイチローの二点タイムリーに関して曰く、「、、筋書きとしてはいいんじゃない、、イチロー、、云々」と言っていたが、斯かる言葉から察するに、彼の頭に当然に在ったのは、自らが策したであろう「小沢一郎」と「民主党」追い落としの”筋書き”、此れが在ったればこそ、「筋書き、、イチロー」なる言葉が咄嗟に浮かび、お公家宰相麻生太郎をして、ノーテンキにも発言吐露させて仕舞ったのであろう。口滑らしに関しては、側近から厳しく躾けられてもいる麻生太郎だが、嬉しくなるとついつい本音が出て仕舞う麻生太郎、してやったりの状況下に在る今、口にチャックは無理、どうして黙ってなど居られようか。

 勿論、WBCやプロ野球、或いは、アマチュア野球界の名誉の為に云っておけば、絶対と迄は言わぬが、八百長試合など在り得ぬもの、優勝争いを演じていた日韓両チームに拠る、真剣を以ってする其れは試合であって、八百長試合であれば”筋書き”も在って然るべきだが、其れは筋書きなど全く在る由もないドラマとも言える、イチローのタイムリーでの決勝点、”筋書きとしてはいいんじゃない”なる言葉は、常人では出て来る言葉ではなく、麻生太郎政権が現下に為す、小沢イチロー民主党貶めの為の国権濫用が在ればこそ出て来る軽い発言、として理解し得るのである。

 さてさて、24日に為された東京地検に因る、小沢一郎陣営に対する起訴に至る決断と説明、即ち、タイミングと時期、並びに、マスメディアが取り出す世論の声や、緊急世論調査に因る小沢一郎に対する支持率の急減をみれば、地検特捜部の欣喜雀躍振りと、麻生太郎、並びに、彼の腹心として頭角を現し、遂には民族条理にすら牙を剥いた第三帝国官僚政府の治安維持指揮官、官房副長官漆間巌(うるまいわお)等の得心ぶりが、斯かる地検の起訴事由の説明と同時に目に浮かび、焼き付きもするのである。

 政治資金規正法の抵触を以ってする起訴要件を完璧に曲解逸脱し、全く不要とされる”認識”の有無を持ち出して迄、小沢一郎陣営の第一公設秘書の逮捕と起訴に踏み切った東京地検特捜部、記者団を集めては一時間以上に亘って起訴に至る概要を説明したのも異例であれば、起訴に至る主旨説明のみの生臭会見に終わったのもまた異例、地検特捜部側に何かしらの”疚しい気持ち”があったればこその其れは異例の記者会見であって、本来、立法府側でもザル法とまで公然と認識される「政治資金規正法」を以って、それも、当該ザル法に則る形式要件を十二分に充たしている中での、即ち、小沢一郎陣営の適切なる政治献金事務処理を一切無視、政治資金規正法を一歩も二歩も飛び越し、内部に飛び入っての”認識”にまで遡及、斯かる「認識」を以って起訴に至る要件とする何ぞは、まさに法律の恣意的解釈以外の何ものでもなく、政治資金規正法の立法概念を蹂躙するものである。

 斯かる東京地検特捜部の行為は、大東亜戦争敗戦後に、日本国家国民に対する見せしめとして開設された、云わば、極東国際軍事法廷(通称、東京裁判)に於ける、東条英機を一とする、国際法を以ってすれば、無実下に在った数多の軍人や文民に対する、罪刑法定主義に因らない、急拵えでの法制定と其の引用に因る、刑罰の付与に因る不当な裁判と言って過言ではなく、即ち、<共同謀議罪>や<平和を害する罪>等の、所謂、終戦時までには、斯かる概念を持つ罰が国際法にも全く無かった中での、新たな<罪の制定>の持ち込みに因った、其れは死刑や自由を剥奪する判決には在ったもの、当該政治資金規正法の概念もまた、認識の要求はせずとの形式的立法主旨(ザル法と称される所以でもある)からすれば、認識を起訴要件とするには全く馴染まぬものである事は疑いを容れないのである。

 全くの錯覚と幻想でしかなかったことが今回もまた思い知らされたのだが、即ち、公正、公平性さを以って社会正義を貫く事を、其の国家的職務遂行の本分とする司法府であれば、ザル法でもある政治資金規正法に地団駄を踏むのが精々と云うもので、況してや、外為法違反容疑で現行犯逮捕した西松建設の元役員から、取調べの段階で、小沢一郎絡みの政治献金に拘わる自白を引き出したとし、斯かる内容が、六年、或いは、九年以上前にまで遡る、東北地方に於ける公共工事の談合に因る受注を期し、西松建設側が天の声に期待を込めた其れは小沢一郎陣営に対する慣例的政治献金であって、企業からの直接献金が禁じられているが故の、それは西松建設側に因る知恵の絞り、即ち、政治団体、乃至、個人名義を以ってする、それは(迂回)献金であったとの供述の引き出しを盾に、動かぬ作為的企業献金であるとして、虚偽記載を起訴要件とした司法権だが、何度も云うが、自民党立法府を主導して作り上げたのが斯かる「政治資金規正法」、左すれば、立法府にて制定した斯かる法律には、迂回ルートでの献金や、個人と云うダミーを使っての政治献金にまで、司法権は立ち入らないとすることは、立法主旨や精神から言っても明白、政治資金規正法形式主義に在ることからしても、斯かる解釈こそが概念を理解する上では当然のもので、よしんば、政治資金規正法を拡大解釈して、表に出る献金者の「個人名」を調査、斯かる個人が如何なる団体や企業に帰属するか等にまで、当該政治資金規正法の網が被せられるのであれば、民主党小沢一郎どころか、当該法律を主導して制定した自民党議員の多くにも斯かる罪科は及ぶもの、要するに、東京地検特捜部が、マスメディアを糾合し、一時間以上も掛けて起訴説明する様な、犯罪性を帯びた事件ではないのである。

 斡旋利得や収賄、或いは、贈収賄罪等の起訴要件がどこにも見い出せない此れは小沢一郎の貶め劇、頭が良く正義心の強い者が数多く揃った検察庁にしては、起訴に踏み切った要件が余りにも小物(政治資金規正法違反)に過ぎるもの、と云う事は即ち、検察庁独自の事案で為されたものではない可能性の方が極めて高いと云う事である。逮捕から起訴説明へと続く、一連の司法権に因って表わされた事象、須らくが異例でしかない。

 よしんば、西松建設を一とする大手ゼネコン、或いは土建絡みの、政治家と政治献金等に拘わる厖大な、其れも玉石混交の内部情報資料を不正に持ち出した元官憲の就く、行政府の地位に因って間接的にではあっても動かされたとすれば、司法権そのものが独立性を放棄し行政権に屈した事になり、国家社会理念の根底基盤が大きく崩れるもの、看過し得よう筈もないのである。

 ますます驕り昂ぶり、とうとう独裁者のマントまで羽織り、権力者としての風格を取り繕うべく、ブレインの指図通りに発言と行動を差し控えるようになった銀流し宰相の麻生太郎、自らが後見人として鎮座する麻生財閥は、基より、九州の雄だが、人命の安全に多大なる影響を与える可能性すら残す、新幹線用橋脚部材の、「欠陥品」の作為的納入すら刑事責任に付される事は一度としてなく、また、吉田茂翁に因る、戦前戦後の架け橋期に於いて、親米政権樹立の日本での功績を認めたシオニストユダヤ系大財閥資本家群からは、南アに於けるダイヤモンド鉱区の一部掘削権を手に入れ、或いはまた、フランスのユダヤ資本を、セメント製造部門に引き入れてはがっちりと手を結ぶと云った、所謂、政治献金不要の大財閥資本家として君臨もすれば、自らに課せられた現下の権力使用の用途は、あの日本を駄目にした藤原一族の策した、蘇我氏の手に成る律令制度の横取り(日本史では大化改新と云う)と、蘇我入鹿をその長とする蘇我一族に対する暗殺と抹殺に因る、ヤマト朝廷に対する行政支配権の乗っ取りと確立、即ち、現在の議会政治に置き換えれば、小沢一郎民主党の代表として高々と掲げ、国民に約束した、あの「行財政改革の大断行」の横取りに因る、麻生太郎に因る改革潰しであり、小沢一郎の政治的抹殺に因る、民主党潰しと云う事にもなるのだろう。

 司法権が、国家社会正義を、公正、公平性さを以って貫き、其の職責の本分を、理性の考量を以って更に弁えると云う国家条理の顕現は、指揮命令系統が縦一本に繋がる現状の権力組織では適えずのものである事も事実、また、自らにも被害が波及する事に思いを馳せれば、当面する敵対勢力を貶め、且つ、排除する事は、彼等権力者群にとっては其れこそが、我が身の護身にも至る条理なのであろうか。
 ”侍ニッポン”なる良質に生きる精神性は、95%を占める道々の民、或いは、無縁の民にしか遺されてはいない、其れは証左でもあるのだろう。

 だが、良質性に生きねばならない筈の日本民族が、不条理に流れる現状の政治経済体制下に在って、且つ、自らをも追い詰める不条理そのものを打破せねばならないとの気高い思いにも在りながら、マスメディアを介した司法権の発表一つで、小沢一郎を「悪」と看做して断罪までし、マスメディアを牽引する朝日新聞迄が、党首の座を降りるべきとする此の短辺急なる結論の出し方は、換言すれば、日本民族が良質性に在ればこそ起きる錯覚と幻想の賜物と云えるもので、それは即ち、零細企業主よりは中小企業主の方が善を多く顕わし、中小企業主よりは大企業主の方が、更には、大企業主よりは公務員の方が、はたまた、公務員の中でもトップに位置する高級官僚群、中でも取り分け、司法権を預かる高級官僚群の方が、より高い良質性を以って善を顕わし得るとの、錯覚と幻想が、日本民族の多くを支配、また、気質、乃至、民族形質としても潜在しているが故に起きる、それは判断の下し方ではあるのだろう。

 そうでもなければ、東京地検が黒とする傍らで、小沢一郎側は白と主張すると云う、未だ黒白の付いていない当該問題に、国民の大半が小沢一郎側をして有無を言わさずに「黒」と即断し、また、社会の木鐸を任ずるマスメディア迄が、小沢一郎を黒と決め付けては断罪、党首の座を降りるべきとまで迫るのは、偏に、警察庁検察庁と云う司法権を司る存在は、国家社会正義を常に顕現し続ける存在でもあるとの、所謂、日本民族の良質性がもたらす<錯覚と幻想>から条件反射的に惹き出される絶対性の原則がもたらすのである。所謂、懐疑的に物事を観て論の噴出を為し、正義の本質を確かめるなど、日本民族には現われる由もないからである。

 長所の裏返しが短所、其の逆も真なりであれば、良質性の裏返しが悪質性にも繋がると云う事にもなれば、日本民族こそが斯かる即断即決の引き出しをこそ十二分に注意すべきもの、黒白を判断すべき材料が全く整わない中での、一方の「黒」なる指摘の主張に与して仕舞うでは、其れこそ、裁判制度など不要のもの、そりゃあそうだろう、長い月日の掛かる裁判過程とその結果に於いて、よしんば、最終審にて「白」を与えられても、「黒」とされた側の時間は戻らずのもの、特に、現行政治体制が、不条理から条理在る体制への大幅な改革を求めている最中に在って、条理への改革を求める側が貶められるでは、国益の損ない、即ち、95%の国民にとっては計り知れずの損傷にもなるからではある。国民こそが冷徹さを以って観るべきで、安易なる即断の惹起をこそ戒めて然るべきであろう。殊は、日本国家社会の理性在る条理の顕現に関わる重大性に在るからではある。

 民主党の反主流派と言われる、あの前原誠司を一とする一群(小宮山洋子枝野幸男等々)が、此処ぞとばかりに小沢一郎批判を繰り広げ、マスメディアに問われるが侭に、小沢一郎の代表辞任を求める喧伝をし始めたが、彼等もまた、錯覚と幻想からなる良質性から引き出されただけの、其れは条理の未覚醒に在る人間の為せる業、何故にそう云えるのかと言えば、弁護士資格を持っている枝野幸男は当然に了解していなければならないのだが、斯かる政治資金規正法を以ってしては起訴どころか、秘書の逮捕や捕縛すら、実態的に在ってもならない事は当然であるのは一目瞭然の筈、民主党の反主流派に位置する彼等とは言え、政権を奪取せねば、如何に崇高な理念から成る国政履行の大目標を掲げても成し得ぬ事ぐらい、いやしくとも、彼等が為政者に在る以上は理解していなければならずのもので、司法権の動き一つで、即決即断を以って、それも、自党の党首でもある小沢一郎を、司法権の動き一つで、即座に、「悪」と看做す国民性格に阿り、自らは清廉潔白にもあるとの自己主張をするなど論外で無用のもの、国民に拠る、正義を錯覚する即決即断にこそ目を向けて理性を喚起、実態の解明まで待つべきであると静止し、逆に、国民を条理に啓蒙すべきが指導者を目指すべきものの為す筋道なのである。

 即ち、司法権に因る、晴天の霹靂とでも云うべき、権力事象を以って立たされた現下の民主党の存在位置が、見過ごしても良い通常の政治事象に在るのか、或いは、看過し得ない迄もそれ程急ぐ事もない重大なる政治的事象に在るのか、はたまた、党の存続をも左右し兼ねない緊急時に至った、此れは政治事象に在るのかぐらいの価値付けは為して当然のもの、緊急時に至った、(作為が垣間見える)事案にも在ることすら認識し得ないとすれば、理性在る条理を叫びはするが、国家行政権の執行と差配を任せるには極めて危うく心許無い前原誠司等は、民主党としては残念な存在でしかない、と云う事にもなる。

 今、何が民主党に企てられているのかと云えば、其れはまさしく、麻生太郎と、其の腹心でもある霞ヶ関官僚政府群の代表取締役漆間巌(うるまいわお)、並びに、シオニストユダヤ系大財閥資本家群の隷属集団自民党軍団に因る、民主党の貶めを目的とした政治テロルの仕掛と其の実戦である事は、政治的不条理事象から云っても明々白々、即ち、民主党支持に傾きつつあった国民感情の上昇断ち切りと、下降へ向かわせるぶち壊しを以ってする離反の策謀そのものであって、あのブッシュ政権に在っては、9.11同時多発テロルの惹起すら作為して目的そのものは達したのだが、今回の小沢一郎をターゲットとした貶めの作為もまた、あのブッシュの不条理手法に倣ったもの、麻生太郎を見縊ったり侮ってもならずとも云ったが、同様に、第三帝国官僚政府を現に統括する漆間巌を軽視してならずは言う迄もないのである。

 麻生太郎に因る、斯かる不条理の仕掛けにまんまと乗せられ、序でに、民主党内でのヘゲモニーを争って見せるなど愚の骨頂で気狂い沙汰とでも言うべきもの、あの日本を駄目にした藤原一族気取りのお公家宰相麻生太郎と、律令制度整備導入を目前にした蘇我入鹿を、藤原鎌足の指示で惨殺した秦河勝の、末裔気取りの漆間巌に因って、崖っ淵に立たされたのは小沢一郎だけではなく民主党そのものであり、普遍して言えば、道々の民にも在る95%の良質性に生きる国民でも在る事を、民主党の反主流派でもある前原一派は自覚すべきが先決、基より、悔しくてもではある。

 自民党の重鎮群をすら脅えさせ、震え上がらせた麻生太郎の、司法権を恣意的に、それも密かに利した権力手腕は相当のもの、彼の振る舞いは既に、ゴッドファーザーを確信してすらいる域にも在れば、小沢一郎民主党の、自民党が握る権力との対決姿勢如何では勝負は見えたも同然、若し萎えれば、95%の道々の民ともども、何れは浄化抹殺の対象とされのは云う迄もないが、よしんば、政治的死を覚悟しても、民主党小沢一郎とともに一致結束し、叡智を以って戦えば、国家社会正義の錯覚には何れ気付く良質性に生きねばならぬ日本民族のこと、小沢一郎に対する離反と不支持の投げ付けは、ブーメランとなって何れ自らの首を刎ねる事にも気付く筈、其処まで日本民族は愚びたる存在ではないのである。

 況してや、東北六県一千万人の道々の民もまた、朝日新聞の言う様な、即ち、”蝦夷”の地と蔑むが如き、未文化の地では全くなく、基より、蘇我入鹿はと云えば、蘇我蝦夷の子であり、蝦夷なる其の名称を、我ら東北出自の道々の民が好み誇ることは在っても、嫌う由など誰一人としていないのは明らかである。>とある。