日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆若者よ家を出て祖先の歩みし道を見つけよ

 半世紀前に比較すれば我ら総じての日本民族、特に青年達に関して言及すれば、随分と大人しく、老成した観すら見受けられる。良し悪しは別として、政治的語彙に綾取られしアジテーションの立て看板が、所狭しと並べ掛けられていた大学の正門と構内は、今や其の面影すら探すのに難儀を極め、けばけばしかった古のアジ看としては、現在、部分的に散見されるだけ、世に於ける不条理発症の構図、並びに、発生頻度が、半世紀前に比べて些かたりとも減少した訳では全くなく、逆に、悪質極まりない第三帝国官僚政府の為す不条理構図の複雑さのみが増して来ている中で、即ち、基本的社会生活への参加にさえ難易度が増してきている道々の民の現状にも在れば、当時以上の反骨に傾く勢いは若者達の間に於いてこそ増加傾向を見せても良さそうなものだが、何故か、若者達は憤ることもなく、且つ、アジ看で表現する事すらなく、釈迦の諦念、即ち、沈思黙考を選択、世捨て人と迄はいかずとも、社会を達観視して親元に引き籠る風情が蔓延るとは何たる痴態、今日明日を生きる為に困る者のみが徒党を組んで善からぬ算段を為し、先祖の住まいし現中国の大連や遼寧省等に隠れ、俗世に在る我ら墓待ち人を相手に、善からぬ猿知恵を働かせては電話を以って金銭を動かし、終には塀の上を歩く、みすぼらしい犯罪者集団と相成るだけとは情けない現状には在る。

 社会正義の顕現一つ成し得ない菅直人/仙石由人等が率いる民主党政権の下で、叶うことのない一縷の望みを託し、即ち、国家や世界が和平下に置かれると信じ、社会の門戸が開いた中で定職に就き、時が熟せば家庭を持ち、余暇を楽しみながら子供を育て、社会貢献を為しながら予定通りに定年を向かえ、子供達の手を一つとして煩わす事なく、且つ、厭われる事もなく、寿命を迎えれば夫婦ともに一つの墓に入ると云う、所謂、此れが何とは無しの、我ら日本列島に生きる道々の民の、即ち、日本列島に住まいし日本民族と呼ばれる95%の、其れこそが一生涯の平均的歩みであり思いなのでもあろうが、そう簡単には問屋が卸すこともない。

 我ら道々の民が良かれとして選びし民主党政権は、今、其のランドマークとされた一方の雄鳩山由紀夫氏を、一年と経たぬ中で自らの判断と云う仮装を以って実権執行の座から引き摺り下ろし、また、一方の雄でもある小澤一郎氏に対しては、旧権力者側からの仕掛けのみならず、不条理にも、謂われ無き事由を以って、身内とすべき我ら道々の民からも、上記民主党政権内部からと同様の”貶め”目的の作為を以って、自由と時間、並びに、名誉にさえ手枷足枷を嵌めさせられようとし、在ろう事か、私刑(リンチ)執行をすら叫ばれ、政治的抹殺を謀られ様としている態は見るに耐えざるおぞましさの極みには在るもの、世の中を達観視し、斯かる明確なる不条理事象にすら口を閉ざす若者たちは、我ら団塊世代の有象無象の誤れるノンポリ連中とは異なり、夢にも悲惨さにも遭遇するであろう時間的機会は、五倍、十倍以上の凄まじさにも上る筈、左すれば、ノンポリ時代を過ごした両親の後ろに隠れ、メディアと一緒になって不条理劇を囃し立て、小澤一郎氏に対する条理無き不作為のブーメランなど投げ付けてはならず、菅直人政権の懐柔に略成功した、第三帝国官僚政府に因る貶めの作為を為す源流をこそ突き止め、社会正義の顕現に踏み出して然るべきが若者に与えられし民族的責務、道々の民を隷属し続けて今日にまで至る、あの日本を駄目にした藤原一族末裔の不条理的存在の抉り取りをこそ決断すべきもの、リンチの囃し立てに因る絞首刑の執行など、謂れ無き誣告に貶められ、苛まされている罪無き人々に、求めてはならないのである。

 現下に現われている不作為に因る不条理の見過ごし、若しくは、作為的不条理への黙過を以ってする、所謂、諸権威にはからきし弱く、且つ、権威に対する抵抗力無き道々の民に因る、無言での同意の与えは、何れは自身に其の侭に撥ね返って来る不条理に変わるだけでしか無きもの、喰うには困らぬが独り歩きの道も定められず、よしんば、両親が亡くなっても、自らが棺桶に入るまでの半世紀もの間、日本列島に住まい続けられるであろうと考えるのであれば、其れは錯覚であり、大きな過ちを冒す事にはなるもの、両親と同様の、結果成功に見えるだけのノンポリ生活を自身もまた獲得出来る等の錯覚もまた捨て去るべきが賢明、社会正義に関わる早めの条理顕現の思考取り戻しこそが、日本に住まう非選良民の若者たちにとっての、即ち、95%の道々の民の息子や娘たちにとっての、肝要なる人生の条理在る出発の礎でしかないのである。基より、思考とは、行動をも惹き起こす一翼すら担うのだが、残念乍、深淵なる思考無きところに条理在る行動が付き従うことはない。

 マスメディアの撒き散らす情報須らくを鵜呑みにし、即ち、作為、不作為を以ってマスメディアに情報を供給せし裏権力者群の思惑通りにしか動けない我ら道々の民、小澤一郎氏並びに秘書群に対する、所謂、マスメディア一群に因る貶め劇の内容其の侭の受け容れ等はその最たる不条理劇の渦中に在るもの、彼等裏権力者群の意図する侭に、我ら道々の民もまた斯かる貶め劇に、疑念一つ抱かずに同意し加担してもいれば、其れは云う迄もなく、何れは我ら道々の民自身の首を絞める事となるのは必定で有り、若しくは、自らの首を刎ねるが如き愚態として現われるだけでしか無きもの、小澤一郎氏に対する、マスメディアに因る貶めを目的とした条理無きプロパガンダの黙過、即ち、受容は、何れ米国市民同様の哀れなる人間家畜の檻へと誘われる、其れは理性的条理を排除して構わぬとの、愚民化政策の容認でしかないのである。

 小澤一郎と云う稀有なる政治的人物を、悪法とプロパガンダを以って縛り、政治活動の最前線から強制的に遠ざければどうなるかは謂わずもがな、有史以来、日本民族が何一つとして成し遂げられなかった、即ち、総じての日本民族に拠る、千三百有余年もの間関わり合うことのなかった日本民族の為の自主自決と独立自尊獲得の好機を、小澤一郎と鳩山由紀夫の両名は叡智を駆使して設えて呉れ、且つ、主導牽引さえしてくれ様としていたのだが、民主党内部に巣食う障壁で斯かる好機を忽ちにして失って終うであろうと云う事であり、就中、今上天皇、並びに、天皇家の下での国家社会の条理在る再生を目指しながら、従前通りの、即ち、小澤一郎と鳩山由紀夫と云う主導者を政治的に抹殺が適えば、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔に国家社会運営を再び任せ続け得ると云うことで在って、畢竟、国家社会全般の破綻に至る過程を、遮断も押し止めもする事なく加速化させるが如きもの、菅直人/仙石由人の政権登場は不条理社会への舞い戻りと、第三帝国官僚政府に対する全面降伏をすら意味するものでしかないのである。

 職無き若者、或いは、世を儚む様な行動力在る若者は、社会正義の顕現を推し進めている小澤一郎/鳩山由紀夫両氏を抹殺するが如き社会に舞い戻るのであれば、男であろうと女であろうと関わりなく日本社会を棄てて、生き抜く為にも祖先の地に戻り、或いは、祖先が歩みし彼方の地に足を踏み入れ、基より、足を踏み入れる彼の地の歴史を一とする知識習得は欠かせないが、死を賭しての生き場所を探し求めよ、躊躇など無用のもの、生を自覚する中で彼の地に於いて自らの成し得る事が何か、受け入れられることが何か、受け入れられなければどうするかの思考の巡らしなど無用、日本民族の一人として其の体内に混じるであろう、所謂、<朝鮮民族の血、満州民族の血、蒙古民族の血、漢民族の血、ペルシャ系、ユダヤ系、トルコ系、ロシア系、ベトナム系、フィリピン系、インド系、アラブ系、アフリカ系民族>へと続く、御先祖様の歩みしルートを辿るか、左も無ければ、御先祖様たちが何万年もの間苦節を重ねながら辿り着きし、今でこそ国家破綻を来たしたアルゼンチンの最南端にまで足を伸ばし、生き続けると云う生存目標を見付ける事である。

 小澤一郎/鳩山由紀夫を葬り去る様な、即ち、人権と云う、根幹の社会正義の顕現すら平然と押し潰し、在ろう事か、見過ごしにする様な国家社会に、職無き若者、或いは、世を儚む若者達に手を差し伸べる様な条理も、実行力もともに顕れなければ、其れこそが自らが動いて居場所を見付けるのは生在るものとしての習い、あの、ユダヤ民族イスラエルの若者たちが、雑で安価で有毒なる装飾品を新橋や池袋、或いは、韓国や中国で売り歩きながら、小銭を貯めるのと同時に見聞を広め、あまつさえ、会話の取得と同様に様々な情報を仕入れては帰国して自活、若しくは、外地に住まって同化する様は、古来から変わらぬ態様、須らくの国に於いて放浪が認められ、受け入れられているとは言い難いが、未だまだ多くの国では通過の門戸は閉ざしておらずのもの、閉塞感に包まれた反動国家が菅直人/仙石由人を以って現出した以上、道々の民95%は民族浄化に晒されるのが落ち、職無き若者、世を儚む若者たちは、新たな種、畑として、死を賭して、国外に其の生存地を探すべきであろう。