日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆朝日の拝み (2)

 故山形明郷先生(1936〜2009)が四十有余年に亘って読破されし原書は、中国正史二十四史、清史稿四十八冊の五百二十九巻、原書総数二百八十九冊、三千六百六十八巻余にも及ぶ膨大なもので、此れを仔細に読み解かれた事に拠る古代北東アジア史の解析は、日本国の真の成立史を知る上でも欠かせない不滅の、其れこそが歴史的業績であり、尚且つ、国宝級に値すると称されるもの、即ち、あの日本を駄目にした藤原一族と其の末裔に因る、現代にまで引き続がれし不条理塗れに在る日本史(政治史)の仮面をすら、完膚無き迄に剥ぎ取るもので、千三百有余年を経て始めて現代社会に住まう我ら日本民族の手に、伏せられた歴史的、且つ、民族的真相の根幹が明らかにされたのである。

 其れでは続きを記してみよう。

 ○古朝鮮とは、中国東北地方に存在した国であり、即ち「満州経略」の結果、西韓は群県進出を謀ったものであり、現朝鮮方面ではない故、「三韓、三国」をも現在の朝鮮半島には位置付けられない。○三韓建国の本来を考えるに、今の奉天の東北、吉林一帯に在った。大長白山地区であった。○「欽定満州源流考」によれば、前三韓もまた、現在の韓国方面の土着民ではなかった。三韓は三汗とも繋がる。●朝鮮古代史も日本古代史も不正確、改竄と捏造に因り組み立てられた虚構史観が正当視されたもので、「魏志倭人伝」は日本の或る時期以降の現在に通じるものではない。○「魏志東夷伝」に、馬韓は西に在り、54ヶ国を有し、その北は楽浪と、南は倭と接す。辰韓は東に在り、十有二ヶ国、その北は濊狛(ワイハク)と接す。弁韓辰韓の南に在り、また、十有二ヶ国、その南は、また、倭と接す。弁辰は辰韓と雑居する。◎倭は、「弁辰=弁韓」両国の南方界域に在って、倭は地続きの地理的条件下にあった。○「倭」は、現在の渤海海峡、及び、黄海に面した遼東半島最南端の地域、すなわち、旅大、丹東地区の南端に位置付けられよう。「漢書地理史」には、①楽浪海中に倭人ありとある。②楽浪海は遼東湾である。

 ○「倭」は、大燕の支配下にあった。○「魏志倭人伝」が記す「倭」とは、帯方の東南、大海の中、、と記す。○鮮卑族の東方にいた「倭人」は漁労に長けていた。倭を古代日本とは看做せない事由となる。○鮮卑族の居住域は、西はアルタイ山の新疆ウイグル自治区周辺から、北は黒龍江省外興安嶺、若しくは、北海の南辺にかけてあった。○中原に覇を成した「漢民族」を、匈奴族を除いて、この鮮卑族ほど手こずらせた存在はない。この鮮卑族の中、中部鮮卑族から慕容氏が台頭、山海関以東から遼東一帯に君臨し「前燕」となって現われる。また、東部鮮卑、西部鮮卑の北方に割拠していた「大拓越鮮卑」が後世に至り、「元寇北魏」を興し、南朝の「宋」とともに南北朝時代を現出させ、興亡を賭ける。

 ◎「白村江の戦い」に於ける、天智朝による出兵は嘘。交戦の翌々年(665年)、何故か第五次遣唐使は受け入れられ、交戦の翌年(664年)には、唐は郭務悰をヤマトに派遣して7〜8ヶ月も滞在させ、「倭=大和朝廷」ならざる事実を判明させている。即ち、白村江の戦いは、倭がヤマトでないことを示している。○唐は、日本と倭を同祖同根と看做していた可能性はある。○唐は、日本に優遇策を与え、渤海、遼東期にも「日中関係」はすこぶる良好であった。

 ◎「新唐書」の天智二年記事に、、子、天智立つ。明年、使者、蝦夷人(カイジン)と偕朝す。蝦夷また海島中に居す。、、とあり、中国の史書には残るが、日本の史書からは消されている。○「広開土王」碑の倭は、朝鮮半島に在った倭で、ヤマトではない。○日本書紀古事記が過ちであることは、「倭の五王」を大和朝廷の諸天皇と見た史は、朝鮮にも中国にもない。●紀元前後から6世紀中葉頃までは、日本史は誤りばかりである。◎「倭人」とは、現朝鮮半島の南部から全羅南北道の広汎な地域に亘って住んでいた在地原住民である。◎「倭、倭国倭人」は、古代日本の史実ではなかったのである。◎「邪馬台=大和朝廷」、「倭=古代日本」を立証するに足る物証は何一つとしてない。◎倭の全体的輪郭を捉えてみると、この「邪馬台」を、現在の日本列島に持ち込み位置付けることは、殆ど無意味に近く、そうしたこじ付けも極めて甚だしいと云えよう。◎「倭、邪馬台」は、現韓国方面より黄海に面した半島の沿岸部から遼東半島の最南端を指して云うのである。

 ◎卑弥呼はヒミコではなく、ビミフである。◎ビミフは公孫氏の繋類で中国人となる。◎卑弥呼は、朝鮮半島在住の「倭人」或いは「中国人」であり、日本列島内の女王ではない。◎中国の六朝時代、倭は、西晋、宋、粱朝に派遣しているが、このことを記録にした日本側の文献はない。卑弥呼の宗女、壱与の代、即ち、西暦二百年から五百年代に於いてである。五百年代には、既に女王国は中国の史書には記載されていない。

 ◎「倭」=「伽耶」であり、朝鮮半島なのである。◎「邪馬台国」は、蓋馬→祁馬→邪馬、即ち、邪馬台国とは、歴史の舞台から消滅した「蓋馬/高句麗」であった可能性が高い。◎日本の漢字、漢文は、随、唐時代の使い方を今日も受け継いでいるが、現在の中国では漢字が全く変化している。今日の中国で二十五史の漢文を読める人は極めて少なく、寧ろ読めなくなっていると云うのが現状である。●「烏桓鮮卑列伝」は、重要資料である。◎古代中国人は、今日の東北地方(旧満州)方面に関し、全く軍事的地理を把握していなかった。●日本史(古代)は、虚構史観の上に成立しているものである。

 以上が、山形明郷博士が究めた古代北東アジア史に関わる、諸民族の活動並びに活動域の主要解析内容となっているが、手に取られての一読を、特に、真実に纏わる古代史の正確なる知識と熟知を無縁として働き続け、今や、定年を経て、六十有余歳にしてポッカリと心に穴が開き、藤原一族が率いる司法府とマスメディアを頼みの綱として余生を俟つ初老の域に入った我ら道々の民、即ち、天皇家を尊崇する我ら道々の民の充実を以ってする余生の為にも、是非ともお薦めしたい不朽の名著ではある。

 山形明郷氏に拠る、重大なる古代史発見を基にした論文ともなる当該著作から何が分かるかと云えば、我らが子や孫たちが今も習い続ける「日本史」には、重要なる国家出立の点に於いて虚偽捏造から成る嘘の教えが、数多く盛り込まれて正史として教えられ続け、朝鮮半島や中国と云った隣国との関係に於いても、様々な史実の虚偽改竄に因る嘘の教えが、今も尚、正される事なく正史として教え続けられていると云う、所謂、虚偽捏造、偽造改竄等々を基にした、取り分け、政治史に於ける明確な覆しの指摘には在るのである。

 山形明郷氏の大論文として認めた著作と同様に、言語学者である姜吉元(カン ギルウン)氏に拠る論文著作「倭の正体」とを合わせて読み進め、更に、大和岩雄氏の論文著作である、「神社と王権祭祀」や「神社と民間祭祀」等々、また、林順治氏著作に成る「日本人の正体」や関裕二氏の著作集、はたまた、上山春平氏著作集や梅原猛氏の「葬られた王朝」等々をも読み進めて行けば、自ずと、日本列島に住まいし、或いは、古に流入せし人々や、日本列島に持ち込まれし数多の文物や文化、宗教、伝統等々の顕われが、朧気ながらも時系列的に判明、細長い日本列島の中で今に至るまで育まれた生活慣習等々に至る、所謂、北から南に跨る日本民族自身の相違点等々もまた明瞭になって現われて来るのである。基より、国家権力掌握の時代変遷を、其れこそ俯瞰して見ていけば、表には出ずとも明確に浮かび上がるのが、あの特殊なる”日本民族”の存在、即ち、国家権力の背後に常に位置し続ける人々の、延々と続く存在ではあるのだ。

 今、名も無く貧しく美しくもなく、また、人を騙すほどに賢くも無い我ら道々の民は、知らず知らずの内に不条理下の社会に産み落とされ、また、子孫を遺すことが、然も、上記四無に生きる我ら道々の民の美徳であるかのように喧伝され続け、まんまと嵌っては子捨てや虐待を為し、遺された子等は須らく、藤原一族末裔の残しし借金返済の奴隷として、或いは、あの日本を駄目にした藤原一族末裔繁栄の為の家畜人間として生き、身を粉にして働き、考える事なく仕事に没頭しなければならないと教唆し諭され、其れが嫌であれば、電車も在るし樹海も在り、軒下もあれば練炭も有り、橋も在ればと、また、同類の我ら道々の四無の民を道連れにし、お縄を頂戴して司法権の手に掛かり、吊るし首にされるも良しとの、所謂、家畜人間状態へと押し遣られている現世にもあるのである。

 一昨年に於ける、我が国の人口増減が公表されたが、其れに拠れば、自然増が百万人強、自然?減が百十数万人強、増減がマイナス十二万人強、、、云々と云われ、名も無く貧しく美しくもなく、また、人を騙すほどに賢くも無い我ら道々の民の、其れは或る種の、偏向した良質性の追求結果として現われて来ているのである。

 我ら道々の民の長に在らせられる天皇陛下皇后陛下、並びに、天皇家をして、選良民となる末裔一族の盾(権力)にし続けながら、終には、先の敗戦を以ってシオニストユダヤ系大財閥資本家群へと巻き付く其の矛先を変え、シオニストユダヤ帝国アメリカを主とさえ仰ぐに至った藤原一族の末裔たち、結果、我ら道々の民をして、思惑通りに家畜人間状態へと追い遣った総数がどのくらいに上るかと言えば、略一千万人は超えている現状には在ると明確に診て取れるもの、更に、家畜人間状態への追い遣られが、近い将来に於いて策されるであろうと認められる道々の民が、いったいどの程度に上るのかを予測すれば、80%にも上る一億人強にも上るとの想定が可能、基より、其の中には、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔は勿論の事、彼等藤原一族の支配下に在る司法宮、第三帝国官僚政府、マスメディア群、また、自民党や、事大主義者に陥って第三帝国官僚政府に寝返った菅直人一派、更に、財界や学界を取り仕切る者等々が、家畜人間の獄舎送りとされる我ら道々の民に含まれている由もない。

 年始明け早々に始められた、マスメディアを中心とする誣告と私刑要求の撒き散らし、菅直人一派のみならず、あのシオニストユダヤ系大財閥資本家群のエージェントのご意見番とでも云うべき、今や不条理の馬脚すら現した観も在る評論家の立花隆は、小澤一郎氏を評して曰く、「王殺し」の王に喩えられる、小澤一郎は殺されるべき人物であると公言、TBSの番組で視聴者に呼び掛けたのである。

 憐れなるかな”立花隆”、数年前迄は敬服すべき在野に於ける有能なる学識者と認め、著作集も多々目にしたが、時が経ち、また、ロッキード事件を回顧するに付け、司法権の行動と氏の評論に多くの疑念が持ち上がり、其の人となりは、社会正義の顕現を押し潰す側に位置する、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔に隷属する憐れなる一人でしかないとの結論に至るのである。今、小澤一郎氏をして、立花隆が曰く、王殺しの”王”に比定されるとの比喩に当て嵌めたのは、まさしく立花隆が、小澤一郎氏に対して科せられようとしている、所謂、冤罪を基にした魔女狩り裁判とでも云うべき私刑裁判を正当化したものであり、藤原一族存続の為の生贄として血祭りに上げた、其れこそが不条理を基にする指摘でしかなく、農本主義をものし、あまつさえ、「天皇論」の大論文をすら認めた偉大なる祖父、即ち、橘孝三郎翁(1893〜1974)の民族的社会正義をも砕くものでしかない。日本民族として実に憐れではある。

 今年も、良質性を追い求める日本民族の一人として、其の原点でもある、社会正義の顕現を、或いは、示現を説かなければならない事は気が重いが、須佐之男命神を祖とする「天皇家」の、藤原一族末裔からの解放に因る、我ら道々の民須らくへの舞い戻られを希うべく、小澤一郎氏ともども果敢に戦わなければならない。