日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆神事「大相撲」と、八百長と菅直人

 知り得た物事に対する守秘義務を、律法を以って制せられている国家(地方)公務員、基より、司法権を排他的且つ強制的に行使する権限を有する警察庁検察庁も然りで、民間を含む其の他多くの分野に於いても、斯かる守秘義務が律法と慣習法を以って課せられていることはご承知の通りである。

 相撲界の、不法行為となる野球賭博への関与を基にした、警察に拠る捜査と事情聴取並びに其の過程で、任意、若しくは、強制手段を用いて力士等から手に入れた携帯電話、斯かる携帯電話から消去された過去の通話記録をも再生させて判明したのが、件の、「八百長相撲」を窺わせる生々しい遣り取りの記録ではあったのである。基より、野球賭博絡みの捜査過程で所管警察が知り得た、其れは「八百長相撲」を窺わせる実行記録と思しき内容であり、八百長相撲の対価しとての金銭のやり取りや、勝ち星の貸し借りをすら窺わせる、其れは通話内容の再生ではあったのである。但し、八百長相撲を事件として立証する困難さも去る事ながら、八百長相撲そのものが法的刑罰の対象にすらならない事をも同時に熟知していたであろう警察庁の吏員、携帯電話の通話記録を再生し、副次的に、野球賭博事件とは異なる八百長相撲の伝聞的実録を入手した当該吏員は、当然の事として是非を上司に諮ったであろうし、即ち、社会正義の見地から、八百長相撲は見過ごしに出来ずと判断、当該「日本相撲協会」を管轄する文科省等へ通告を決意、当該通話記録内容等のコピーを付して、警察庁の吏員が提出したものと見られる。

 だが、もう一つの可能性、即ち、「知り得た物事」に関わった警察庁から、部外の一般社会へと流される可能性のある、所謂、リークされる捜査情報は、スクープと称して放映したマスメディアの司法記者の手柄、即ち、通話記録内容を示す当該コピーの映像に流れ出た事実を見れば、其れは、所管警察の関係吏員から直接に入手した、其れこそ生々しい捜査資料(情報)である事を教えているもの、一民間人が、知り得ぬ筈の「知り得た物事」のコピーで在る事を知らしめるには十分のものなのである。よしんば、当該所管警察から、警察、若しくは、司法記者クラブに出入りする、一民間企業であるマスメディア人士に対して当該情報が作為的に流されたとすれば、其れこそ忌々しき問題(機密の漏洩、守秘義務違反)に他ならずのもの、あの尖閣諸島で発生した中国漁船の捕り物劇、即ち、菅直人が現に執行する政府が解決の道を誤った政治軌道と大同小異のもの、斯かる捕り物劇の映像を機密としていながら、関係吏員に因って故意に暴露された様なもので、実行者でもある当該吏員は、犯罪者の汚名こそ免れたが、其の職責と職掌上、組織に因って罷免にされた事を忘れてはなるまい。八百長相撲を窺わせる当該通話記録内容の官憲に因るリークは、如何にリークそのものを合法とす例外規定が在るとは言え、赦されざる守秘義務違反行為が含まれている事に変わりは無いのである。

 また、日本相撲協会に拠る「春場所」開催の取り止めは不当なる決断である事を糾弾しなくてはなるまい。即ち、日本相撲協会が忽ちにして下した「春場所」開催の取り止めは、即時的に言えば、大相撲と云う存在の本質を無視した判断でしかなく、国技と云う名を冠しての見世物興行化、又は、スポーツ興行としての私物化を、押し進めて終った事の現われであり、其れは、相撲協会を運営する理事長達に因る、錯覚を以って為す誤った決断と決定でしかない事を知らしめるには十分なものである。彼等相撲協会の理事達が下した、所謂、春場所開催の取り止めに関する御意見の聴取があったのかなかったのか、即ち、日本民族の神事に従事するものたちの意向を聞いて理事達は決断したのか、或いは、当相撲協会の監督省庁でもある文科省大臣に相談、更には、内閣府の長でもある菅直人に拠る、最終的な判断ともなる取り止めの決断を受けて、相撲協会が開催せずと判断したのかが全く不明、基より、菅直人が、「天皇家」の御判断を仰いだ其の結果としての、御取り止めの御裁可に拠る御決断であったのかどうかも、我ら道々の民は知らねばならないのである。

 大相撲は其の有体無体の本質を「天皇家」の御許に置かれるもので、良質性を追い求める日本民族に帰属する其れは神事の一つでもある。斯かる大相撲の存在と其の本質から鑑みれば、例えて言えば、氷川神社に従事する巫女や神主が悪さを遣り、其れが露見したが故に、氷川神社の恒例祭儀とする三月の神事、即ち、<郷神楽>の祀り事を取り止めて当然とするかの如きもの、斯かる祀り事取り止めの大合唱が、巫女や神主等に因る悪さの露見を以って、我ら道々の民から巻き起こるとでも云うのであろうか、そうではあるまい。悪さを遣った巫女や神主に対する、粛々として為す免職や追放等の処分に同意はしても、或いは、公法廷に於ける係争関係に入ろうとも、祀り事を取り止めて良しとする声が多勢を占めることは無く、祭事執行者を新たに立てて淡々と祀り事を押し進めるだけと云う、所謂、良質性を追い求め続ける、其れは我ら道々の民の判断の礎ともなろうし、また、精神性ではあるのだろう。

 神事としての「大相撲」は、国家神道と云われた、所謂、あの日本を駄目にした藤原一族に繋がる、物部氏から奪いし中臣氏の”中臣神道”とは其の存在の本質を全く異にするもので、即ち、百済国の王子豊璋が帰化後に中臣の姓を名乗り、後に、天智天皇に拠って藤原姓を下賜された当該鎌足と、其の鎌足の二男藤原不比等の手に因って、政権は藤原本宗家が担い、王権祭祀の祭事は、政権を担う藤原本宗家外の藤原家、即ち、中臣家が須らく執り行うと云う不文律を成立させる以前から、斯かる「大相撲」の神事は存在し、形こそ異なれども、在ったのである。

 春場所開催を取り止めた相撲協会の理事長は其の発表の席上で、当該「大相撲」をして鎌倉時代からのものと言っていたが、大相撲の源流を示す上では大きな過ち、712年に編纂されたとされる「古事記/中巻」の記述に、即ち、「垂仁天皇」の条に於いて、既に「力士等」の文字が認められてもいれば、其れは当然に、神事をも司る力士達(所謂モノノフ)が、垂仁朝の弥生時代には存在していることを知らしめるもの、「大相撲」、即ち、「意富相撲」の存在が其処からもみてとれるのである。

 日本民族の神事で有りながら国技ともしている「大相撲」を、見世物の娯楽競技、乃至、スポーツ競技の一つとして看做し、其の下位に措いて恥としない日本相撲協会とマスメディア、政教分離を建前とする日本国憲法との兼ね合いから、天皇家に拠る、所謂、神事/祭事として執り行う大相撲を、直接関与無きことを主張すべく覆い隠そうとする相撲協会とマスメディアではあろうが、基より、戯けたことを思考すべきでは無いのである。即ち、天皇家の司る神事は日本民族の頭上に置かれるもので、俗世界にはためく須らくの宗教をも分け隔てなく認め、包摂さえするもので、良質性を追い求める日本民族の、其れこそが、安寧、静謐、繁栄、並びに、守護等の、所謂、形而上的源流ともなるもの、個別に敷かれる宗教とは、普遍的利益に与すると云う点でも、全く異なるのである。

 勘違いを正す事は易しいが、認識の違いを正すのは容易ではなく、左すれば、為されて然るべき「大相撲」を以ってする神事を、従前通りに執り行う手段が在るとすれば、其れは、為されてはならない事を、無知を以って判断した、当該日本相撲協会文部科学大臣、並びに、菅直人やマスメディアを批判しても始まらずに在れば、神事としての大相撲を認識している条理在る「日本相撲協会員」が集い協議して、力士達を集め、「春場所」の開催を決断する事ではあるのだろう。基より、皇居に関所を設けた藤原一族の末裔を通り越して求める、天皇家の御聖断を仰ぐことが何よりも大事なことである。其の役割を担う者、本来であれば、内閣総理大臣でもある菅直人が、其の役割を担わねばならないのである。

 度重なる噴火爆発が今もなお続き、止む気配すら一向に見せていない霧島連峰を構成する韓国岳高千穂峰の中間に位置する新燃岳、宮崎県民や鹿児島県民、引いては、九州の人々にとっては、口蹄疫鳥インフルエンザに続く自然災害の噴火爆発、如何に自然災害とは言え、何故に宮崎県民ばかりが、こうも立て続けに不条理を被らねばならないのかとの憤懣も出て其れは当然の事であろう。

 高千穂の峰は、神話の世界に於ける天孫降臨の地、天津日高日子番能邇々芸之命(アマツヒタカヒコホノニニギノミコト)が、天照大神高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)より、葦原中国を治めよとの命を受け降り立った地である。如何に神話の世界の話しとは言え、例無くば神話も成し得ずのもの、早き鎮まりが成される様、大宮氷川神社のお札に向かい、お祈りする毎日である。