日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆国益の正体 (1)

 国益とは何ぞや、其れは核体としての個人(今上天皇)益が礎として在り、即ち、個の存在を一様に尊重して認められる一個人にとっての生存の自由が、即ち、行動の自由、思考や表現を含んだ自由が、何ものに因っても冒されずに保障される事であり、また、其の保障を生存の本質として出発する中での家庭/家族(天皇家)益へと及び、次に、当該家庭/家族益が集う地域社会益、更には地域社会益が纏まる集合せし社会益へと繋がり、究極的には、集合社会を総称した国家社会益へと昇華収斂されていく一連の、利益実現と普遍性を伴う保障と成就の概念を顕わすもので、斯かる保障と成就の”成”をして、過日に野田佳彦が採り上げて言いし国益、と看做す其れは趣旨概念ともなるのだろう。即ち、在りし日の日本国権力者群が一時の形勢に釣られて唱和した様な、所謂、本末転倒の全体益が先ず在りきなる、国益の核として出発する原初からの全体益が、核体そのものとして存在する訳ではない。

 個人(今上天皇)、家族(天皇家)、地域社会、集合社会、国家へと拡大していく、所謂、個から発するべき利益享受、乃至、利益保障の核体、此れが即ち、根源的に云う、個人に帰属して成立すべき国益の正体なのであって、努々、原則個人を蔑ろにして国益を求めるなど有り得ぬ概念、誤解してはならないのである。

 基より、国益なるものは、社会正義の顕現とも密接に関わるもので、個人をして受動的に言えば、作為を以って、或いは、不作為を以って、如何なる者からも”貶め”られてならずは言う迄も無き事、また、個人をして能動的に云えば、作為、不作為を以ってされる其れこそが”貶め”は、国家国益の為にも排除されなければならないものである。

 先の十二月十六日に開かれた、強制起訴(作為的私刑裁判)を以ってする小澤一郎氏に対する十回目の公判が開かれ、元大阪地検特捜部所属検察官(現受刑者)であった前田恒彦証人は、証言台に立ってリンチ者側の尋問に答え、東京地検に駆り出されて取り調べに当たった当時(2010年1月)の、小澤一郎氏の元秘書等に対する取調内容と状況等に付いて、自身の為した検事職を思い出せる範囲内で証言したとある。基より、現在はトカゲの尻尾切り紛いの不遇に遭い、あまつさえ、最高検検事総長にまで至る司法権の執行者須らくの咎を独りで背負い、予後不良下に措かれる可能性の高い前田恒彦受刑者のこと、僅か二年足らず前の取調べとは云え、自らの不利益となる事実証言は控えた可能性も高く、基より、社会正義の顕現を、其の場に於いてすら怠っていないと云う(証言の)保障すら無かった事は言う迄もないのである。

 そうであるにも拘わらず、前田恒彦(現受刑者)はリンチ者側の不利になる可能性の高い証言を、危険を冒してまで敢えて為したのである。基より、受刑者となった今こそ正義を求めて生きなければならないとする社会条理回帰の為かどうかは判らぬが、即ち、曰く、小澤一郎氏を刑事裁判にしょっ引こうとする当時の、検察庁総掛かりに因る”罪状見立て”のシナリオ作りには、明らかな過ちと無理が存在したと証言し、小澤一郎氏を刑事裁判に引き出すには(材料が無く)困難であり、恐らく無罪にはなるだろうとも証言したのである。

 要するに、最高検を頂点とする司法権組織検察庁の作為せし小澤一郎氏貶めのシナリオは、水谷建設の役員から大久保元秘書の手を通じて小澤一郎氏に贈賄として渡されたとされる、所謂、水谷建設が捻出せし収賄用資金五千万円であったとの見立てを創作、更に其の五千万円は、後に小澤一郎氏名義で取得登記された件の土地購入代金四億円の資金の一部となったとの筋書きへと発展、だから、被告は受託収賄罪でしょっ引かれるのは不可避となり、小澤一郎氏をして、遂に刑事裁判の俎板に乗せる事が出来るとの検察庁全体の”罪状見立て”に至る自己満足の確信を、取調べを担当した当時の前田恒彦元検察官が、在ろう事か否定的に、其れも自らの発言を以って証言して見せたのである。

 検察庁は、水谷建設を一、西松建設、或いは、大手ゼネコン等々に、マスメディアを引率して家宅捜査まで強行してみせたのだが、大山雷同して鼠一匹出ず、出たものは、其れこそが胡散臭い証言者ともなる上記水谷建設元実行役員の、極めて杜撰とも言える、検事と水谷建設元役員間の、口頭での遣り取りに因る状況証拠が調書として記され残っただけのもの、即ち、贈賄を行ったとする元実行役員の検察取調べ調書が在っただけであって、贈賄側の実行を裏付けるべき、水谷建設元役員に因る資金の出所と、収賄者側に間違いなく流れたとされる一連の物的証拠は、何一つとして出無かったのである。基より五千万円の入った袋を、確かに、元秘書に手渡したとされる喫茶店での領収書であるとか、喫茶店まで行ったタクシーの領収書であるとかの水谷建設側の贈賄の実行を指し示す物証は、証拠になどなるものではない。

 勿論、無いのも当然、小澤一郎氏の元秘書に贈賄として現金五千万円を手渡した等の事実は、検察官と水谷建設元役員との、其れこそが裏取引きに因る作為性を帯びた調書作り以外の何ものでもなく、当該証人を益する調書の押捺と見受けられるからである。此れはいつか何処かで見た光景の一つでは在るのだろう。其の通り、冤罪事件には付き物の、貶める側の常套手段ともなって久しいそれは手口の一つ、不条理にも刑法犯として確定、収監され、一年を経過した今でこそ仮釈放の身の上には在るが、斯かる冤罪被害を被った、鈴木宗男氏に対する不条理事例を想起させるのである。

 三権分立なる幻想下の権力条理を盾に、為政者の多くは司法権に対する物言いを敢えて閉ざし、司法権の遣ること為す事を看過黙認し、出来るだけ関わり合いにならぬように目を伏せ、若しくは、近付かぬべく迂回する道を選んで来たのもまた国会議員として禄を食む代議士諸兄達、無手勝流の道々の民であればいざ知らず、行政、立法、司法の三権にすら携わり、目を光らせるべき立場と役割すら担い、あまつさえ、国益の為に、社会正義の顕現を常態として全うせねばならない筈の代議士諸兄が此の体たらく、基より、彼等の多くは挙手起立要員でしかないが故のものと、道々の民から揶揄される所以ともなり、また、禄盗人の溜まり場でしかないと蔑まれる事由とすらなるのである。

 勿論、小澤一郎氏をして、或いは、小澤一郎氏陣営をして、貶め排除する事で、個人、並びに、集団の利益となる、所謂、政治経済的利益を、従来通りに、大いに享受し得ると確信するものも少なくは無く存在するのもまた事実ではあるのだろう。例を挙げれば、自民党であるとか公明党であるとか、はたまた、共産党であるとかが、小澤一郎氏に対立する其の政党として挙げられ、基より、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔と、その差配下に在る司法権や官僚機構、更にはマスメディアと言った巨大集団が、小澤一郎氏並びに同陣営に対する不条理を以ってする貶めや排除に躍起になっているのも見逃せぬ事実なのだが、在ろう事か、道々の民の政党民主党をして国権執政の座に就ける迄に党勢を拡大せしめ、依って、道々の民の益を早急に回復せしめ様とした政権政党の創設者小澤一郎氏を、貶め、排除して喜ぶものが此の民主党の中にもまた居たと云う事実が在るのである。