日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆選良民障壁が立ちふさがる日本列島

 国家行政権を統御掌握する内閣府自体が遅々として動かず、其れどころか、彼等行政府の組織管理下に在る各省庁そのものが、内閣府の差し示す条理在る指示に従わず、あまつさえ動かずに、逆に、行政府の閣僚陣を教唆さえすると来れば実に困ったもので、此れは無政府状態を指し示す政治態様か、乃至は、官僚公僕に因る、錯誤下の国家支配の何れかに該当するもの、斯かる状態が此れからも延々と続くのであれば、衆院参院も無用の長物と化すのは至極当然の成り行きと云うもので、何れ道々の民が、自らに降り懸かる政治行政の過程と結果を思考する事さえ拒み、集団生活、強いて言えば、国家政体に良質性を求めなくなるのも必然、我ら一億二千五百万人道々の民は、官僚政治と云う、藤原一族が巧妙にして謀り、囲いし<荘園制度>の中に、囚われる身の上となり、奴隷の存在として甘んじて生きる事のみを強いられる、所謂、古に辿りし被抑圧の民と相成るだけであろう。

 愚びたる民族造りには相応しい、其れは無言を以ってする一方的な政策の押し付けであり受容の強い、即ち、条理無き無秩序社会を造り上げる現下の、第三帝国官僚政府主導型の不条理施策の押し付けと活動は、極論すれば、元来が道々の民に対する抑圧政策から須らくに派生していると考えざるを得ずのもの、強いて言えば、東国を一とする在りし日の、列島民族奴隷制移行への追い遣りと云えなくもなく、乃至は、諦めと不活動の称賛に因る、その他大勢の道々の民に対する貶め行為と言えなくもなきもので、無言を以って成し遂げ得る、明らかな愚民化政策として見て取れない事もないのである。

 今上天皇天皇家)を代行する国家行政府の管理と指揮の下、国家社会の公僕として胸を張って職域内(外)を闊歩、職制下の執務を全うすると自負して已まない、日本列島を、中央地方併せて四百万人の現役で覆い尽くす官僚と公務員諸兄、財務省であれば歳入出の組み立てに関わり、法務省であれば社会秩序を維持すべくに自らが率先して自制心を逞しくし、文科省であれば組織社会に於ける生存手法の土台創作に務め、国交省であれば組織社会に於ける共同活動の足場造りをする。また、厚労省に於いては、人々の生から死に至る関わり事に取り組み、防衛省に在っては異民族や外来集団に因る領土侵略や破壊活動の防止に務め、有事に至らぬ様に監視、有事に至っては排除に向かう。外務省に於いては、異民族群や集団との間に交誼を図り互恵平等を以って尊重し合う務めを担う。更に、農水省に於いては、日本列島に住まう道々の民が三食を以って其の生存が叶い、叡智を絞り智慧と成す静謐なる社会生活を営む事が出来る様に生活資源を保護育成する等々の、所謂、行政府組織の実践部隊としての役割を担っているのだが、元々が、官僚、公務員とは謂えども、此れまた人、人、人の集まり、基より、公としての職制下に於ける職責を全うする、或いは、全うしている事に異論を差し挟むつもりは毛頭に無く、あまつさえ、公司の諸兄には大いに感謝申し上げるのだが、憎まれ口を叩けば、国家社会的職責と職務以上に張り出して来たものが何かと云えば、其れは、各行政組織を律する個別法の独自組織に因る整備であり実施、並びに、社会そのものとの整合性を一切顧みる事を為さぬ、斯かる省庁、乃至、都道府県を律する公司に因る、個別法の見直しを防ぐ、新たな法の制定に次ぐ制定が、国体を斃す迄に至った病根として挙げられるのである。

 社会全体が経済的に膨らんだのと軌を一にして、法を以って、或いは、法に基づく運用と云う名の手法を駆使して、其の後を必死になって追い続けた官僚公務員社会もまた、当該社会経済的発展を享受し得た事は言う迄もなく、基より、当然と言えば当然の事なのだが、追いかける彼等にとって何よりの強みはと言えば、何事に依らず、法律を駆使、或いは、運用と云う名の、行政組織に在る其の職務と権限を巧みに行使して、コツコツと、置かれる立場の環境整備を推し進め、生涯に於ける吏員相互の、経済的段差無しに遺族もまた全う、継続的に成し得るべく、本来の職責以外の律法成立を以って組織強化に努めて来た事が上げられるのである。

 国務、或いは、公務に従事すべき其の能力を最大限に現わし、且つ、良質に発揮すべく、組織に生きる自らを取り巻く環境整備と拡大に務め、内務部門の強化をも同時に図って来た官僚と公務員、環境整備の大元ともなる俸禄の定めと諸手当の定め、出向規定、退職規定、更には、権限規定律等々の運用の解し方もまた、組織内部の強化策の一環として作用、一段一段と禄の積み増しが為され、目標とした、大財閥企業経営陣に見劣らぬ位に迄到達する事、また、平均寿命を以ってする一生涯に於いては、彼等を追い抜いて頂点に立つ事を合言葉に、国務、公務の職域に在って独り黙々と計算し続けたのが、まさしく彼等公司なのである。

 国費、公費で賄われる、所謂、官僚、公務員と称される公司の人々が集いし「営巣」の中に、よしんば、俸禄等に代わる色の付いた凝固剤を流し、然るべく後に其処を掘り起こしてみれば、必ずや、斯かる営巣に与した先人達も歩んだ、所謂、墓場と遺族群にまで辿り着く、複雑怪奇で巨大な、幾重にも重なり曲がりくねった管道が見付かるばかりか、同時に、故在って現役を引退せし元官僚や公務員等にまで、其の凝固剤は届く事を教えて呉れる筈、即ち、斯くも巨大化して終った公僕絡みの組織社会、現役四百万人、退役せし古参三百万人が、我ら道々の民の目の前に税消費のアートとして現われて来る筈である。

 即ち、民間には違いない大財閥企業群の、所謂、エリート集団に見られた昇給ベース、或いは、大財閥企業群が誇る手厚い福利厚生等に、少しでも追い付こうとした組織内部を律する公司達、基より、追い付こうとするモチベーションそのものが錯覚でしかなく、有り体に云えば、法を律し、且つ、運用する職掌に在る公司の、単なる言い訳でしかなかった事は、彼等の営巣に探査のカメラを忍び込ませ、浮かび出て来る一つ一つの税消費の実態解明に因り明らかとなっているのである。

 最早くどくどと云う必要はあるまい。彼等四百万人を現に擁する国家(及び地方)組織は、我ら道々の民との間に、関税障壁ならぬ”選良民障壁”を古の如くに拵えて終ったのである。基より、彼等公司の選良民は、一つ一つ剥がされる自陣営のベールを前にして、われ関せずの沈黙を以って貫き通すのであろうが、民主党為政者の全てがすべて彼等に白旗を上げたものではなく、不条理行政に因る国体の疲弊、就中、道々の民の致し様を知らない窮状感、乃至、切迫感を、総身に感じ取り、小澤一郎氏ともども、斯かる選良民障壁を造りあげた、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔たちと戦おうとする国士も居るのである。

閑話休題

 小澤一郎氏に対する<不条理裁判劇>は、一度の遅延も無く、八回公判を終えて九回目を向かえたが、如何に私刑裁判を祭り上げる公認機関、所謂、検察審査会事案とは云え、此れほど迄に酷い後進国紛いの裁判劇を窺わせるものは無く、即ち、小澤一郎氏陣営をターゲットとした貶めの作為在る検察調書や、検察官証言を通してさえハッキリするのだが、更にさらに、元検察官で今は犯罪者として服役中の証人喚問での発言を目にすると、最高検にまで至る検察庁そのものの、所謂、独善に因る独裁性を帯びた権力の濫用振りのみが目立ち、つい先日に於いては、六百万円の小遣いを、いや、ボーナスを手にした検事総長の高笑いのみが、耳にガンガンと響き渡って聞こえてくる感すら覚えるのである。

 不条理なる裁判劇で明らかとなった尋問に対する証人発言、其の何れもが、現役検察官と元検察官のものだが、前者は、在り得もしなかった自白調書に、尋問した検察官としての職務意識を問われ、(自白調書を纏めた検察官であるあなたが)勝手に内容を作ったのですかと裁判官に問われ、いけしゃあしゃあと”そうです”と答える此の非道性、証人として立った当該検察官が、正直者と言って終えば其れ迄だが、社会正義の顕現にどっぷりと浸かって然るべき現役検察官が、此の体たらくの有様、はたまた、服役中に在る元検察官の証言に於いては、当時の検事総長訓話が紹介されて曰く、”此れはまさしく小澤一郎との全面戦争である。小沢一郎を(塀の中に)落とせなければ我らの負けである”と訓じたとされるものが其れ、社会正義を顕現し、常に全うすべき法治機関であるべき検察庁の、其れも、トップが、部下に訓示し戦闘を鼓舞して発する様な、社会正義の顕現とは全く無関係に位置する、所謂、「国家権力争い」を想起させる戦陣訓を、当時の検事総長の言葉として今にして聞かされ様とは思いもよらなかった事である。

 小澤一郎氏陣営に対する二つの不条理裁判劇は、進めれば進める程に、強欲を帯びた検察庁のボロと綻びが剥がれ落ち、道々の民の間に、司法権を排他的に行使する彼等に対する不信感は、尚一層にして増す筈なのだが、民主党員の中からさえ挙がって来ぬ司法権批判、其れも道理、如何せん社会正義の顕現など忘れて久しい、藤原系マスメディア群を多く抱える日本列島の殊、正義漢を自負する”みのもんた”や”村尾信尚”さえ、斯かる不条理裁判劇には目を向けようとしないのは已む無き事なのだろう。