日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆賢人政治家ウラジミール プーチン (15)

 スラヴ民族の、あの忌まわしい<農奴>時代への逆行を阻止したばかりか、広大なる領土を有するロシア国の実体的分離分割を未然に防ぎ、異民族に因る国家支配を寸前にして食い止め得たのが、他ならぬ一期二期通算八年を担ったウラジミール プーチン政権である事は異論を差し挟む余地なきもの、基より、全体的底上げを見ていないロシア国家社会の現状では明確なる検証こそ憚られるので情報公開される事も無かろうが、ロシア国家社会内に起きた過去十二年の様々な不条理事象に対するプーチン政権の向き合い、並びに社会的進展具合の過程と結果のみを見ていけば、見識高きスラヴ民族であれば自ずと、ウラジミール プーチンの指揮差配に因る、其れは硬軟取り混ぜた一連の政治活動の結果、所謂、成果であって、腑に落ちる条理在る政治活動認識へと変化していっている筈である。

 スラヴ民族を含む国民の約八割以上が農業を主とする第一次産業に従事、日々の生計を貧しくも在りながら耐え忍ぶ中に営んでいた二十世紀前半までのロシア国民、農業と云えば、穏やかな田園に遊ぶ農民の日常生活を、取り分け、馬を駆っては土を耕し、鋤や鍬を持ち、或いは、種を蒔いては刈り取るといった、喉かな牧歌的風景を斯かるロシアの大地にも思い浮かべるのであろうが、彼の国もまた名にし負う好戦的で、且つ、華美絢爛を好む君主に支配され続けし国家の一つ、基より、ロシア革命に因って永年に亘って続いた帝政が斃され、共産主義社会体制に執って代わられてからも尚、政治経済体系こそ変わりはしたものの、其の日常的体質そのものは変わらずのもの、帝国主義(帝政)が共産主義に代わり、支配者としての君主が、赤の貴族ノーメンクラトゥーラに代わっただけ、即ち、被支配階級の侭に措かれるロシア民族の大多数は、少なくともウラジミール プーチンクレムリン登場を見る迄は、殆ど、根源的社会生活そのものが変る事はなかった、と云っても過言ではないのである。

 好戦的体質に在り続けた君主、或いは、華美絢爛を好み続けた君主に支配され通したロシア民族、基より、国民の主流を形成するスラヴ民族そのものに、斯かる好戦的体質が皆無であるかと云えば左に非ずは云う迄も無き事だが、抗争や戦争の繰り返しを好む者は職業軍人を措いて他には少なく、左程に多くも無かったと言えるのではあろう。抗争や戦争が勃発すれば、農民も番度に於いて駆り出されるのが常であった共産主義社会体制時代迄のロシア、戦闘訓練もそこそこに、其れこそ有無を言わさずに最前線へと追い遣られるのが農民階級のさだめ、敵兵を斃す為の戦う駒として軽く取り扱われていたのは言わずもがな、よしんば死しても、荒野に放置された侭に捨て措かれたのが、此れまた帝政ロシアを下支えしたスラヴ民族の宿命、況してや、戦争参加報奨など微々たるものである事は云うに及ばず、其の代償がロシア軍兵士等しくに被せられる汚名、即ち、ロシア軍兵士の通った後にはぺんぺん草一つ生えず、形あるもの全てが壊されるか持ち去られるかの何れかであり、唯一に残されるのは、ロシア軍兵士の糞尿と女体に入った胤だけとは、よくぞ観察された被侵略国民に拠るロシア軍評ではある。

 勿論、不条理なる戦争であれば、それは正しい戦争であるとか過ちの戦争であるとかの判定など不能のもの、ロシア軍兵士のみならず、米英独仏中朝日、、等々、須らくの兵士に当て嵌まる其れこそが不条理を内包する戦争行為、勿論、兵を統括し統率する国や軍そのものが、斯かる不条理行為を公に認めているかいないかの違いは在るものの、米英軍とて今なお其の軍事行動に於いては不条理性の排除は到底不能、”力は正義なり”を主張、体現しているにしか過ぎないのである。また、国際法たる戦争法の中では、無辜の民を殺めてはならない、金品を不当に奪ってはならない、領土侵略も犯してはならない等々の、十戒に習う教えも有るにはあるが、今まさに生死を賭し、殺るか殺られるかに追い詰められた中で、須らくの兵士が、約束事でもある戦争条理を全う出来るかどうかは甚だ疑問、況してや、駆り出された戦争に勝ってすら報奨は皆無、報奨は戦場から持ち帰るものとの慣行が、戦争条理としてすら行き渡っているロシアであれば当然に、強き者が須らくを奪いとる事こそが、国の勝利である事と同時に兵士個人の生きる道そのものであると”倣って”さえ来た筈、まさに、戦争とは善を顕わす以前の人間そのものの問題ではあったのである。

 彼ウラジミール プーチンは、中世から現代に掛けての自国ロシア史を一、古代に遡る近隣諸国や欧米史にも通暁し、特に、戦争や抗争に関わる裏面史に深く触れていた事は、執政下に措いた彼の、実質的十二年の政治行動からも十二分に窺い知れるのである。また、彼が賢人で、且つ、賢人たる所以は、正史の成り立ちを直視しただけに止まらず、歴史事象の善し悪しをも明確に認識、自らの政治活動の条理、乃至、規範造りの原点に、斯かる悪しき部位を含ませる事は決して無かったことを、当該事由として指摘して置かなければなるまい。其の大きな一つには、共産主義社会体制時代には、マルクスの言ったとされる、”宗教は麻薬の様なものである”とまで蔑まれ、ソビエト時代には断罪され排斥され続けた、其の「宗教」に対するロシア国民に対する全面開放が在ったのである。

 基より、ボリス イェリツインの治政下に在って、閉ざされ続けた「宗教」は、全面開放に拠る復活と自由を得たかにも見えたが、積極的には非ずの細々としたもの、基より、国家上げての開放と迄は行かずのもので、イェリツイン政権末期まで其れは待たねばならず、ウラジミール プーチンの治政下に於いて、完全に、「宗教の自由」や「信教の自由」が公に認められもしたのである。

 ウラジミール プーチン自身は、東方正教会、若しくは、ロシア正教会等に順ずる宗教に帰依しており、もちろん篤く信仰している人物である事はよく知られた事実だが、他の宗教に対する畏敬の念も、同時に、絶やさずに併せ持ち、其の事実は、実質十二年と云う短期間にして、元々が多民族多宗教国家であり、且つ、カオス下に措かれた状況から、ロシア国家社会を再生復興に向けて誘導、ものの見事に這い上がらせた、所謂、重要なる国家条理形成の礎を造る主導者となった事からも見て取れるもの、イェリツインでは、或いは、共産党のジュガーノフや自民党ジリノフスキーでは、決して成し得なかった、其れは宗教開放に依る、国家社会の立ち上げ要素ともなったのである。

 ロシア正教会を一とし、ユダヤ教キリスト教イスラム教、仏教等々、また、其れ等から派生する、所謂、諸々の宗派を入れれば、それこそ相当数に上る宗教宗派がロシア国家社会に流入、乃至、顕われたのだが、当該信教の自由、信仰の自由を、悉くに開放したのが彼ウラジミール プーチンの仕儀、基より、多民族、と云う事は多宗教を以って社会が構成されているロシア国であれば、其れは当然の成り行きの様にも見えるのだが、左に非ずは世の常、宗教と謂えども信徒を多く抱えれば、持ち得る「宗教力」を社会正義として政治を介して顕わしたくなるのも必然、だが、ロシア国では最も信徒数の多い東方正教会、或いは、ロシア正教会でさえ、他の宗教宗派を排斥、若しくは忌避、誹謗中傷したりする事は全くなく、あの排他的宗教性格を教義に帯びるユダヤ教タルムードでさえ、無条件に認容された事は云う迄も無いのである。勿論、国家転覆に関わる行為そのものを容認する事は無かったのである。

 出口も見えず、暗闇続きのトンネル内に措かれ続けた二十世紀に至るロシア国家社会、その様な中でも少なくは無い数のスラヴ民族等は、室内に飾った聖画イコンの前に毎日に佇み、左右の逆十字を切り、日々安寧の祈りを奉げていた事は、共産主義社会体制の禁制下に在っても遂行され続けた其れこそが事実、好戦的国民性格の振る舞いには似合わぬ、また、大柄な体躯にも似合わぬ、良質性を求め続けた神経質な多民族でも在る事を、彼ウラジミール プーチンは、史実や裏面史の検証等からも当然に認識し得ていたのである。

 情報入手と分析、並びに、其の応用力の重要性を認識し、更には、内外に跨る膨大なる史実と裏面史の把握まで遣って退けながら、一つとして権力者のおくびにも出さなかったウラジミール プーチン、其れは既述した事だが、乱れにみだれてカオス下に措かれた国家社会を其の侭に崩壊させることなく、再興させる為に執った手段によく現われているもの、即ち、時限を区切った清濁併せ呑む政治活動を展開、真の反社会的行為だけは決して認めぬと云う執政条件を、国民広くに開示し、有言実行した事に其れは強く見て取れるのである。

 二期八年を以って国家再建の強固なる基礎造りを遣って退けたウラジミール プーチン、反国家社会的新興財閥群に対し、所謂、オリガルヒ一群に対しては退場を勧告、強制力を以って排除し、暫定的に、彼等に代わる有能なる人物群を充当して組み込んだのだが、全てが聖職者に成り得なかったのもまた事実、基より、プーチンの描いた青図に基づく国家再建の建屋造りは、次なる大統領のメドベージェフがバトンタッチを受けて担うべきではあったが力量不足で及ばず、欧米のメディアをして喜ばすことになる、彼のオリガルヒに代わるシロヴィキの登場を許す結果さえ残し、即ち、反撃を誘う隙間をすら、メドベージェフの力量不足は与えて終ったのである。

 基より、懸念するには及ばずのもの、クレムリン宮殿への再登場を託されたウラジミール プーチンの殊、磨きの掛かった其の政治力は更なる賢人政治家、鉄人政治家として、良質なる歴史をロシア史に遺していくのであろう。