日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆天皇家と道々の民、この基本構図は譲れない

 国家と云う垣根の中で現に生きている我ら道々の民、いや、生かされていると云った方が、或る種、納得の腑に落ちる其れは理解と云うもの、今や垣根は実体的には単一では無く、時として何層にも階を重ねた、言うならば、棚田の如き段差在るものですら在れば、自由民主資本主義と云う”水”が、万遍なく、其れも下方一帯にまで流れ続けるとは限らないのを当然と看做すか、若しくは、実体に馴染まぬ状況を改善し、隈なくに流れるべくの改革改変を求めるかは、垣根の中に生かされる我ら道々の民次第、と云う事にはなるのだろう。特に雨量の少ない場面に於いては、下段に措かれる垣根ほど巡り来たる水量は其の配分を少なくするもの、皆無すら惹起して終う事と相成るのは人為的にも避けなければならない。

 古来、国家と云う垣根は、目に見える二面(段)から成立したものであり、所謂、王家、後に、天皇家と云う、力在る主導者と、唱導される道々の民と云う単一の集団社会構図から成り立ったのだが、斯かる権力者と非権力者の単一図式は、一種の継続と云う時代変遷を経て細分化を見ていくのである。即ち、代を重ねる事で二面に措かれた其々の居住空間は拡大、特に、権力者側に入り込んだ輔弼者達の居住空間が拡大したばかりか、彼等輔弼者達は権力者の力を借りてする垣根を設えては、輔弼者としての地位を永代不可分のものとし、また、時を経る中で同心円を描く様に其の居住空間を拡げ、且つ、輔弼者と云う権力執行者に在る実態を以って、唱導されるべき道々の民に対しては実体的権力者としてすら振る舞う事と相成るのである。

 権力とは力そのもので在り、基より、腕力であり知力であり、また、武力を根底に抱える総合力でも在るのだが、本来に於ける独りの権力者と其の他大勢の非権力者と云う列島構図に深化し育まれて来た単一社会図式、即ち、国家日本と云う権力図式は、今や形無しのものである事は否めず、即ち、唯一の権力者であるべき天皇家は、政治経済に関与し得ずの、国家国民の象徴とされ、天皇家の息吹きを直接に求め続けて来た国民の面前から光背を遮蔽されたばかりか、国民に対する社会生活への直接関与すら全く遮断され、在ろう事か、我ら道々の民ともども、輔弼者の名を借りた、若しくは、国民の名を借りた不逞の族の一群に因って、其れも、立憲君主制の形体的大義名分を翳され、双方とも、悉くに於いて彼等に因って律せられると云う不条理状態に措かれた侭となっているのである。

 敗戦後七十年にも喃々とする現状の日本国家は、敗戦に帰したとは云え、立憲君主制に基づく国家社会体制に在らねばならずのもので、言うならば、民主自由資本主義を垣根に廻らせて社会理念とする、換言すれば、三権分立を基盤に据え置く法治国でも在ると自負すらして七十年を向かえようとしているのだが、振り返れば、立憲君主制は棚上げにされて名ばかりのものとされ、況してや、法治国であると胸を張っては言ってみせるが、法そのものが、律する者の力に因って縷々解釈変更されると云う状況すら生み出し続け、斯かる勝手なる変更をして国家範例とすら見做し、維持継続させる様を良しとして押し通す権利の誤用濫用は、権力運用者や執行者の常態とすら成っている事を明確に知らしめてさえいるのである。

 誤用と濫用に満ちみちた司法権、行政権に因る事例を掲げ、更なる多言を要さずは、最早、論を俟つ迄もなく、言う迄もない。

 押し付けられた憐れさと悲惨さの現代日本に生きる、「天皇家」と、我ら赤子に在る「道々の民」、本島を中心として南北細長くに延びる「日本国」に住まう、其れは明らかな主導者と被主導者の関係に置かれて然るべき、古より続く社会体制なのであって、基より、天皇家を頂点とし、赤子一億二千七百万を以ってする日本民族が同祖同血にもあれば、受け容れて当然の良質なる主従の関係にも在る筈なのだが、増々にして古より歩を進める斯かる良質なる相関関係は、異端分子に因り棚上げにされて形骸化へと追い遣られ、毎年に於いて誕生する百万人の愛しむべき赤子の子弟をして、輔弼者や三権を司る権力者の所有物、乃至は、人間家畜として、彼等の設える垣根の中に、労力として押し止められる事と相成るのである。

 我ら道々の民が支えて然るべき対象は、民族唯一の主導者であり実体的権力者に在られる、長天皇陛下が坐します「天皇家」そのものであり、罷り間違っても、御傍近くに仕えて当然とし、あまつさえ、道々の民との間に不要なる堰を設ける事で、「天皇家」と「赤子」の仲立ちを買って出て生業とし、永代権、即ち、国家的世襲とする様な特権階級にまで権力を伸ばし、直接、間接的に政治経済を律する様な自称選良民に仕え、支えている訳ではないのである。

 菅直人野田佳彦もともに、斯かる日本の歴史事象と歩み続けた権力の実体構図を一つとして解せず、況してや、社会正義の顕現が何たるかさえ理解し得なければ、病状に喘ぐ日本社会の道々の民をして、更に搾り取る為に鞭を取り、尻を叩くどころか頭をすら叩いて良しとするもの、多数を占める下流域に住まう我ら道々の民を叩いたにせよ、出るモノは血反吐ぐらいのもの、此れ以上搾り取れるものは何もない。

 −余 談ー

 英雄色を好む。妾の二人や三人甲斐性在る者であれば認められ様。離婚、男女同権に在る今の御時世、非難される謂われ無し。妾に産ませた子、責任を持って育て上げれば特段の問題は無し。原発事故に因る放射能汚染が怖い、当たり前である、怖くない者など誰一人として居ない。放射能を怖がるのは男らしくない、其れは過ちに引き摺る精神論、敵艦に突っ込んで自爆せよと云う様なもの、生命を誤解してはならない。、、云々が、小澤一郎氏に対する更なる貶めの事実として流布されてはいるが、政治家として活動するのに何の不都合が在ろうか、有る由もない。