日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆支離滅裂なる政治屋野田佳彦

 母校の早稲田大学で、夢多かりし学生達を前に講演を行ない、消費税増税を含む税と社会保障の一体改革の重要性を、此処でも強調し熱弁したとされる野田佳彦、聞かされた早大生達のおとなしく、且つ、深々と耳を傾けて視聴する様は、講演者である野田佳彦にとっては実に頼もしい存在の後輩として映ったであろうし、また、わが子の様な年頃に在る前途洋々たる彼等後輩たちを目前にし、何れは己の様に、国家社会を現に広く取り仕切る役目を担う、所謂、東大出自の高級官僚群を左右に従えては傅かせ、思いの侭に国家行政を動かせる存在として、政界に出現して来る若者たちでもあると確信したに相違ない野田佳彦、久し振りの里帰りにも似た、或いは、一旗揚げて帰った様な、其れは満足を伴う誇らしげな気分では在ったろう。

 政官財、学界等に多くの人材を供給する東大や慶大、或いは、早大や京大を一とする、半世紀近く前の大学構内には、朱色や黒色の塗料を使って殴り書きした、所謂、内容も様々なアジテーションの立て看板(学費値上げ反対、米帝打倒、ベトナム戦争反対、米軍基地撤廃、沖縄返還、脱公害、、等々)で溢れ返っていたものだが、当時、部外活動で入部した文学部に落胆し脱会、其の後、機動隊に突き飛ばされてはノンポリを決め込み、大学騒動真っ只中の頃には図書館通いと茶店雀荘通いを常習とし、上記著名校とは無縁の吾ながら、若く正義心旺盛なる同世代の姿や、彼等の”学びながら”に感じ取る、目の前に広がる現実世界との実体的乖離、閉塞感、或いは、怒り、虚無感をすら押し広げる現実のやるせなさに共鳴すらし、其れこそが青臭さと新鮮さを同時に併せ持ち、不安にして覘きたくもなる異界とでも云うべき境界が、青二才と言われた当時の昭和四十年代中頃には、実感として、脳内に存在していた事を観念的にも思い出すのだが、今の世は、即ち、我ら戦後世代にのみ限って言えば、世代間の枠を須らく取り払って支障無き様な、実にマトリョーシカ的で物分りが良く、分別に優れ、反抗時期など全く見られぬ、強いて言うならば、内向的個別分離尊重型若者世代とでも云うべきか、一歩外に出れば、押し並べて大人しく、老成した観すら在る若者たちである事をまざまざと見せ付けているもの、我ら敗戦後まもなくに産み落とされし世代が、箸にも棒にも掛からない駄目世代であったのか、はたまた、自身を抑え付ける今の若者世代の、我ら親世代の背中を見て育った”物分りの良さ”、乃至は、諦念感の理解受け容れと其の実践が正しいのかの、愚にも付かない論の提起がしてみたくなろうと云うもの、棺桶入りに一歩近付く日本民族の一人として、斯かる、早くにして完成したかの如くに見える彼等若者世代に対してモノ申すのは、少し淋しい気がするからではある。

 現役宰相野田佳彦の演説を聞き終えるや否や、聴講していた学生が俄かに立ち上がり、「官僚依存症候群!」、「乗っ取り屋!」、「一小市民の権威主義者!」、「詭弁師!」、「国民殺し以蔵!」等々、何でも良いのだが、言論界と政界に多くの人材を輩出し続ける有能なる早大生が其の聴講生でも在れば、理性在る条理を以って諌言する、当該事実指摘や罵声の一つや二つ、先輩でもある偽善者野田佳彦に浴びせて当然とする、上記学生が居ても何等不思議は無い筈なのだが、どうやら、慶大に次ぐ此の早稲田でも、ややもすれば自己満足組が大勢を占める選良民の卵たちと評価され兼ねない、所謂、正義心に満ち溢れた熱血漢の学徒などは一人として居らず、須らくに於いて冷静で大人しく、物分かりの良い、政官財に散らばる予備軍然とした、所謂、錯覚下真っ只中に措かれし子供達ですらあった様で、実に目出度いものがある。

 学者や研究者を目指す学生は別として、其の殆どは四年間を経て、不条理多かりし社会に遊ばざるを得ない世界に追い出され、若しくは、自らの意思で泳ぎ着く可能性の極めて高い若者たち、其の何割かは、嫁も貰えずまた婿とりも為せず、古に言う一国一城の主にもなれず、はたまた、居酒屋の暖簾を、同僚と釣るんでくぐっては上司の悪口を吐く会社員にもなれず、非正社員勤めもまた長続きせず、親に寄生しては引き篭もりか無職の仲間入りする者が、此の早大から出ないとも限らないのが今の世の中、この様な不条理社会を造ったのは、或いは、黙過する事で是とすらしたのは、我らを含む先に生まれしバカ者たちの作為であり不作為に因るもの、特に酷いのは、あの日本を駄目にした藤原本宗家一族末裔に弄ばされ続け、日本の政治を一気に劣化させた、具体的に掲げれば、小泉純一郎竹中平蔵宮内義彦組から始まり、麻生太郎漆間巌組に至る、四代九年間続いた自民党不条理政権の為せる業、基より、自民党以上に、完璧なる不条理政治を引き継ぎ、且つ、磨き上げた民主党の、即ち、八百万の神々をも足蹴にした、アナーキスト菅直人が在り、官僚依存症候群に陥った早大出の野田佳彦が現に在ると云えるのである。

 政権玉座に就く前の「野田佳彦」の人となりや経歴など、調べる価値も意味すら無ければ、当然に解かる由も無く、現に見られる彼と過去の履歴から推察される政治条理等々を比較するのも少々無理な話しだが、敢えて言えば、恐らくは、挙手起立要員に措かれ続けた不遇なる時代も、また、現に政権を担う煌びやかな立場に在る今も、性格や諸能力の点では、政治家野田佳彦は少しも変わる事はないのであろう。斯かる現状の政治的実態から推量すれば、野田佳彦は創造こそ下手で貧弱、また、政治力量的に見ても、消費税増税の立ち上げ以外に目立った政策は無く、但し、演技と弁舌だけは実に円滑で巧みだが、深みの在るものでは決して無く、為に、説得力は乏しく陽炎の様に消え去って終わるだけ、即ち、対応はし得ても対処は不得手なる人物でしかないと、野田佳彦をして判断し得るのである。

 事例を上げればキリがないが、原発再稼働問題や、其れ以前の、未解決の侭に措かれ続ける福島県民被害者救済問題、更には、沖縄県米軍基地普天間の移設問題や、今般日本に持ち込まれし米軍機オスプレイの常備に関わる、関係地市民からの根強い反対に対する処方の示し、更には、検察庁に因る件の、立法府議員に対する明らかな侵犯行為へのダンマリの決め込み、更に、尖閣諸島問題に対する、有事の際の自衛隊の投入発言等々、実にその場凌ぎの場当たり的発言の繰り返しに終始しており、在ろう事か、朝令暮改すら野田佳彦の政治的持ち味とさえなってもいれば、彼に因る当該波動として表われる大きなる振れは、我ら被洗脳下に措かれた道々の民をしてすら右往左往させるだけ、一本芯の通らない”官僚主導型”為政をまざまざと見せ付けるだけでしかない事は言う迄も無いのである。

 能吏(官僚群)からの講義や簡単なる説明を受けた野田佳彦は、朝に国会で其の侭を答弁、行政府の長たる実体そのものが問われるとの異論を差し挟まれれば、夕方には、朝の意趣を百八十度変更しては平然として覆し、更に、国際紛争解決の解釈と意味をも国民に示さぬ侭に、継子扱いに措かれた自衛隊(実体として在る陸海空軍)をして、尖閣諸島侵犯国、若しくは、侵略国に、排除の対処を促し、発動さえするとまで言い切った野田佳彦、はたまた、地検特捜部所属検察官の不正行為に関わる件で、指揮権発動を前法務大臣から持ち出された時の印象を問われ、その様な話しは一つも無かったとして、社会正義の顕現から逃げ、嘘の暗闇に逃げ込んだ野田佳彦、一事が万事、此の政治的にも愚びた体たらくを示す野田佳彦にもあれば、”民主党は既に終わった”存在なのであるから、法と権限を条理に執行する為に野田佳彦は「衆議院解散」を以って、唯一最初にして最後の社会正義の顕現を決断すべきである。