日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆”無知に勝るテロル無し”は、若者には馴染まない

 何処となく嵐の前の静けさを感じさせ無いではない今日の日本社会、早目に咲きし桜の花も散り、葉桜と成りし今に、無事卒業した学生達も現実社会への第一歩を力強く踏み出し、清楚な鎧兜に身を包み喜色満面にして職場に向かう光景が、我が古屋の窓越しからもちらほらと見える。自らも其の一人としてだが、何十回となく繰り返し見て来た若者たちの、表向きには変わらぬそれもまた光景なのである。

 基より、入社に際しては予めに於いて、帰属する企業の業務内容や職域の場を、入念にと迄はいかなくとも、概要だけは頭に入れて初出社に及ぶのであろうが、基より、即辞令に依る職場への着席と云う訳にも行かず、数週間、或いは、数ヶ月に亘ってオリエンテーリングや業務研修等に通い、おぼろげながらも、自らの為すべき仕事の概要が判明した時点で、新入社員諸君は其々に各職場の配属先へと向かう事となるのであろう。勿論、今もなお変わらぬ、其れこそが年に一度の光景でも在ろうかとは思われる。

 四十三年前(昭和45)の四月を鮮明に思い起こさせて呉れる彼等若者達、当時は須らくに於いて良かったよ、と迄は断定しないものの、全てが目新しくすべてに興味が湧いたものである。私事を言わせて貰えば、職種の希望こそ叶わなかったものの、即ち、第一志望〜第三志望さえ叶わず、海運部門の営業と言う、選択肢にすら入っていなかった部署に配属され、三ヶ月間を、親元より片道二時間半を掛け、横浜港に在る関連会社に通っては現場研修、教えて下さる人が居たと言うよりも、仕事の実践に携わっている先輩諸氏十名程のそれぞれに、数日間づつ付いて回り、横浜税関、検疫所、船会社、船舶代理店、船内、港湾荷役業者、倉庫業者、通運業者、艀回漕業者等々へと同行させて頂き、入社早々に手に入れて読む実務専門書をカバンに入れながら、海運を舞台にした、上述した其々の官や民間企業が受け持つ役割をおぼろげながらも学ばせて貰ったものである。実態的理解に至ったのは、勿論、実践に携わって以降のものである。

 あっという間に過ぎた研修期間ではあったが、東京本社に配属されし海運営業課は、四十歳前後の営業課長を筆頭に、三十七歳と三十五歳の主任が二名、その他には、三十四歳、二十七歳、二十七歳、二十四歳、二十四歳と来て、末席を準備されし小生二十三歳の新米を加えた、課長以下男子八名の社員が営業職に就いた所、女子社員一名を加えた計十名を以って構成された部署に配属とはなったのである。全体として若かった当該企業、当時の営業課長を除き、全員が存命されているやに聞く、結構な事ではある。

 今思えば至極単純なる無念さには在るのだが、先輩諸氏が毎月々々生み出している、所謂、台帳記載の儲けは、どの様に生み出していけば良いのだろうかとの素朴なる疑問だけが解消せぬ侭に、前期(九月末)終了を向かえ、同時に、直属に師事した上司二名は、転勤で異動、若しくは、病気療養を以って退社され、新たな二十九歳の赴任者が詰めては来たのだが、椅子温めの実務派で抱え込み型のタイプ、僅かなルーティンワークを受け持った得意先を除き、不在となった二名の為し続けた業務の穴埋めは、須らく、其の堅実さを絵に描いた実務派の彼が受け持った事は言う迄もない。

 入社初年度であり怖いもの知らず、思い煩う事などは毛頭なかったが、二、三件の得意先受け持ちだけでは時間を持て余すだけ、はてさて営業に身を置いている以上、此の先如何に動いたら良いものやらとの思案の連発、並びに、営業とは何ぞやの原点に引き戻され、一年足らずで理解した事は計画と実行、今にして思えばだが、退社並びに転勤された上司二名の、突然の立ち去りが独り立ちを余儀なくさせて呉れたもの、感謝の念をこそ抱くもので、別の意味で彼等を忘れた事も無い。

 一年先に入社した先輩二名の仕事内容を、真横で具に見聞させて貰い、四年先輩の同僚が為す、「カリマンタン、木材、船舶」なる言葉が耳に入る、所謂、輸送プロジェクト参加の電話の遣り取りを耳にし続ける中で浮かんできたのが、ようし、俺も歩き回るぞ、荷主を新たに開拓して仕事を創るぞの決意に至ったのが、営業マンの自覚の始まりではあったろう。ルーティンワークを熟した九時半前後には席を後にし、予定通りの営業活動に出ると云う、自らの組み立てた営業の道を選んだのである。勿論、行き当たりばったりに回っては萎れて帰社した訳では無く、得意先となる可能性の有る企業群の何処を回れば、輸出入や国内に移送される貨物等の物件が在り、物流の手伝いに参画貢献出来るのか、或いは、情報を仕入れる為には何をし何を活用すべきか等々の考えを纏め、粗々の行程を準備した上で、実践に移したことは言う迄もなく、見積もりの提示にまで成功した場合の、物流手段の組み合わせや、最も肝要なる、引き受け範囲全体の費用構成に関わる、勿論、組合せ等のスキルの問題もあるが、全体情報の入手が先決であった事は言う迄もない。

 斯くして、山あり谷あり、失敗も在れば成功も在る、満足もいけば不満も残る、褒められもすれば叱咤激励も在る、何十年間にも跨る社会人生が始まったのである。

 希望を胸に抱いて出社に及ぶ現代社会の若者達を思い描くと、我らの時代とは経済状況も社会環境も異なるであろうし、差し詰め、アナログ社会とデジタル社会の如き相違には在り、アナログを以って律することなど本より出来る由も無いが、唯一つ言える事は、ともに人間同士が顧客になり引き受け手となる形だけは何時の世も変わらずのもの、左すれば、良好なる対人関係作りが如何に重要であるかは言う迄もなく、対同僚然り、対上司然り、基より、顧客に対して然り、初対面の相手に対して然りであれば、其の為に介在させるべきは、取り敢えず、人との接触(会話)を拒まず、先入観を入れず、好ましい人物として看做す事から、其の接触(識ると言う)は始められて然るべきなのである。基より、自らを知って貰う為にも相手に対する積極的な接触アプローチは欠かせないのである。

 ”人生は芝居の如し、、”、”仕事はゲームのごとし”なる、福沢諭吉翁と古人が言ったであろう諧謔が思い浮かぶが、一歩表に出れば百人の敵が闊歩する、其れこそが芝居を以ってする現実社会、王様になる事も出来れば、乞食になることさえ出来る(諭吉曰く)のだが、此れは極論であって詐欺師達に任せるとして、社会人となりし者は、或いは、組織人となりし者は、自らをより知って貰う為にも、相手(回り)の人物をしてより早く知り措く事こそが肝要なるもの、交流を深める為にも、仕事を得る為にも、決して欠く事の出来ないそれは芝居への不可避的手段なのである。

 勿論、社会人の一人として、芝居を円滑に押し進める為にも必要なる事は、一にも二にも欠かさずに行う、書物を通して為す常態的な学習である事は言う迄もないが、業種に関わる専門書のみならず、幅広い分野に跨る読書もまた欠かせずのもの、動けば動くほど確率の高くなる壁へのぶち当たりと乗り越えの為にも、不断の勉強は重要で、基より、新たに築くであろう社会生活に於いても当然に、役立つ可能性は十分に有るのである。読書は、識字に由る語彙や概念の拡大に至らせて呉れるのは勿論の事、新たな知識の蓄えやモノの見方の発見から始まり、自らの異見の引き出しや解決の糸口もまた、斯かる書籍が与えて呉れるもの、”無知に勝るテロル無し”の、箸にも棒にも掛からない不良社会人の一人とならぬ為にも、通勤途上の眠気を誘う車中では在っても、頁をめくる読書の姿勢こそが終生の助言者とも成るのである。

 日経ビジネス(今も発行されている筈)等の、所謂、ビジネス本は勿論の事だが、他の実例を挙げれば、金融概論であるとか財政概論、会計概論であるとか法律概論等々に纏わる概略本ぐらいは、職業職種に拘わらず、また、学生時代に既に目にした事が在るとする者ですら、早目に、今一度読破して理解しておきたい所、更に、世界史もそうで在るが、古代史から始まり現代史にまで至る史書にも手を伸ばし、今に在る自らの、言うならば、知られざる歴史的奥行もまた、新たなる知識として身に付けて置くのが賢明、自らの将来を垣間見る為にも欠かせない、其れは人生の書籍群とさえなるのである。

 社会人になった今、これで勉強を全くしないで済む、と云う新入社員が居るとすれば大きな間違い、勿論、居る由もなかろうが、組織に組み込まれれば自由時間は大幅にカットされのは当然であり、生きる為の原資として、斯かる時間は姿形を変えるもの、余って然るべき時間ですら何かしらの制約は受けて当然で、人の一生と同じ様に、己の自由になる少ない時間を有効裡に、且つ、どれだけ早く沢山の知識を蓄え、次なる行動の創造源や糧の生み出しの為に活用し得るかは言うべくも無かろう。

 人生八十年、永い様に見えて実は短く、楽な様に見えて実は苦労も絶えず、棘の道ばかりかと云えば、晴々しい平坦なる道も当然に歩み得るもの、終焉のゴールが迫って初めて其れは断じ得るだけなのであろう。左すれば、斯かる八十年をどう生きるかは、偏に、真っ直ぐ歩くだけ、歩く為のエネルギーは常態的な勉強(読書)無しには成し得ぬもの、社会正義の顕現、其の礎をして厚く且つ広く築く事に他ならないのである。