日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆汚れし馬脚を因とし、退く時期も見え始めたか。

 第一次安倍政権を担った当時の首相の言動や行動態様で在れば、あれだけの子供染みた駄々っ子ぶりを見せ付けて批判されるのは当然で、尚且つ、様々なメディアを通じて為される世間からの批判をしてすら、丸っきり一顧だにせずに振る舞い続けるでは、火に油を注ぐの譬え通りのもの、野党政治家ならずとも声を大にして腐し、批判したくもなろうと言うもので、況してや、社会の木鐸である事を自負するマスメディアで在れば尚更に、活字にして、無能力なる者の首を取りたくもなろうというものである。

 だが、第二次、第三次政権を連続して担う現下の安倍晋三政権は、鍛錬や指導の甲斐が在っての事ではあるのだろう、第一次安倍政権時に見られた、同じ子供染みた駄々っ子ぶりを見せ付け、轟々たる批判をされても、全く意に介さず、勿論、病院に逃げ込む事もせず、其れどころか、批判が強くなればなったで、逃げられないと判断すればアッサリとその非を認め、真意こそ窺い知れる由も無いが、突然に、それも平然と国民に謝罪して見せると言う、云わば、政治指導者的打算に因る対応を巧くとって見せているのである。

 勿論、懲りもせずの舌禍飛び交い事件に因る、不祥事を招いた配下の者の弁舌をして、大変に申し訳なく遺憾でも在ると、使用者責任を以って詫びた形の安倍晋三ではあるが、舌禍をして必然と見、舌禍内容もまた当然と言い張り続ける張本人の懲りぬ再三の記者会見を見てすら、其れ以上の釈明は一切無し、勿論、舌禍事件を惹き起こした”会”そのものを催した総元締めの自民党木原稔には、一年間の党職の剥奪と言う処断こそ下して見せたが、同様の「会」は党員の数だけ在れば意味無きもの、況してや、舌禍事件を惹き起こし、反省の顔色一つとして見せず、且つ、舌禍そのものである事を全く認めていない張本人の自民党代議士(大西英夫/東京16区、井上貴博/福岡一区、長尾敬/大阪14区)はと言えば、野放し状態は不変、舌禍を惹き起こした者が如何に使い走りの小者であって、挙手起立要員の一人でしか無い禄盗人では在ろうとも、彼等もまた大のオトナで在る事に変わりはなく、苟も国民に選ばれし選良民の一人一人、左すれば、責任を取ってこそ然るべきもの、社長とでも言うべき使用者責任の立場に在る首相安倍晋三は、謝罪の言をこそ代弁して見せたが、張本人等はと言えば、親の気苦労もものかわ、場外で自論を展開し続け、舌禍惹き起こしの自論を展開しては再びにして正当化、即ち、親の謝罪を背中に掲げながら、甘えてではあろう、否定し続け、駄々を捏ねて見せたのである。

 とは言え、此の親にしてこの子在り、首相安倍晋三は、不肖の党員達の言動に謝罪こそして見せたものの、遂にぞ、己に科せられて然るべき使用者責任を取る事は無く、脛に傷持つ咎人か下手人かは扨て措いても、50歳を過ぎ70歳を間近にした彼等中身無き小者達には、直接にする注意喚起など煩わしく、また、言うのも憚られるとし、幹事長である谷垣禎一に彼等の処分を任せた事は言う迄もない。

 世のアウトロー集団で在る親分達でも、子分の為した不祥事には、使用者責任を翳されて、刑罰に処されるのが常の昨今の司法事情に在って、首相安倍晋三だけが謝罪のみで済まされるでは極めて不合理、権力者群に関わる者が総じて赦される様な舌禍事件で在って良い筈も無いのである。

 首相安倍晋三の現下の心情に関して覗き見すれば、マスメディアを侮辱する等とんでもない言い掛かりであるとし、拝み続ける心こそあれど蔑む事など一つとして無く、第二次、第三次安倍政権を作って呉れたのは他でも無い、国内マスメディアを牽引して已まない各位、即ち、丸六年以上にもなるであろう当時の<麻生太郎政権時>於いて、政権奪取に迄は行かぬだろうと見られていた民主党だが、其れでも尚、政治的勢いだけは幽かに引き寄せ始めてもいた件の、鳩山由紀夫と小澤一郎率いる民主党をして、此れ以上に近寄らせずに貶めるべく、特に、永年にも亘っては自民党の要職をも務め上げ、国家社会内に根差す様々なる黒い内情をすら知り尽くしていた稀代の政治家小澤一郎(民主党幹事長)に的を絞り、下野に追い遣られる事を見越した、あの日本を駄目にした藤原一族本宗家の末裔を自負して已まない麻生太郎政権は、元警察官僚のトップに位置し、当時は、麻生太郎の右腕として活躍、小澤一郎/鳩山由紀夫両名の追い落としに奔走、加担した、漆間巌の地検特捜部等にも手を回す働きで、大々的な政治的テロル攻撃を仕掛け、追い落としを謀っては功を奏し、二年間の短期間では在ったが、已むごと無き事由を以って下野、政権こそ野党民主党に渡しもしたが、直ぐに取り戻しが可能となったのは他でも無い、朝日新聞を一とするマスコミ各位に因る、小澤一郎や鳩山由紀夫をして政治的に葬り去ろうとした官憲の、不当なる権力を利した追い落とし劇に加担、成功したが故のもの、左すれば、第二次は基より、第三次政権すら執政が可能となった首相安倍晋三にとってみれば、まさにマスコミ様さまと言うもので、批判などおこがましく、罰も当たろうと言うもの、と、紛う事無く感じてはいるのである。

 如何に、血の繋がる、父安倍晋太郎や祖父岸信介、或いは佐藤栄作の元首相等々が、政治資金等を含む厚き支援をアメリカ合衆国から受け、当該米国を含むEUをして実体的に支配統制下に措く件の、冷徹なる遣り口でも名高いシオニストユダヤ系大財閥資本家群に対する、借金の返済や御礼の実行や実現では在ろうとも、マスメディアに対する懲らしめや批判等は全く無きもの、とでも言いたかったのであろう。単純に解すれば、類は類を呼ぶの喩えが教えてもいる様に、市井の民である目立ちたがり屋の作家百田尚樹や、自民党員ではあるが、主に挙手起立要員に充当される上記三名にとっては、首相安倍晋三に付いて回っていると言うだけで、偉くなった様な気分になる、云わば、錯覚から来る自己顕示欲が蔓延る連中、基より、”類は類を呼ぶ”烏合の衆の族にも在る以上、安倍晋三も同類項に位置するのは当然のもの、米欧中を軸にして世界の政治経済を完璧に牛耳る妖怪、即ち、シオニストユダヤ系大財閥資本家群が、己の守り神として付いていると錯覚もすれば、必然として、言葉のみを以って轟々たる批判を交わし得ると信じ、国民の鎮め等は其れで十分との、小馬鹿にした判断をして当然とするのもむべなる哉、日本国家国民を律する、所謂、己が現に持ち、且つ、差配に及ぶ<権力>をして、諌める事が出来るのは、唯一、己が尊崇して已まない<主>だけ、即ち、シオニストユダヤ系大財閥資本家群以外には居ないとの隷属姿勢が、一言二言の詫びを含ませた謝罪を以って十分過ぎるとさせてもいるのだろう。

 基より、吉田茂翁が組閣せし実体的戦後初の内閣から始まり、元首相の菅直人とともに憲政史上最低の行政府の長の一人とも言われる件の、元首相野田佳彦に迄至る、権力者群には全く見られない、須らくの責任を認めておきながら、形象として表わす責任は一切取らぬと言う、其れこそが実体としての無責任、此れはまさしく、日本民族をして奴隷の民に治める様な、言わば、横柄なる姿勢を以って為す一権力者の弁とはなるのである。

 首相職を担う「安倍晋三」なる人物が、果して、根っからの日本民族の一人には在ったのか、左も無ければ「何人」に彼の血は繋がっていたのか、今一度問い直し、若しくは、問い正す時期には来ているのかも知れない。即ち、同じ戦後生まれの日本民族で在れば、「戦争」に良い戦争など一つとして無く、決して遣ってもならぬと徹底して教えられ、且つ、家庭や社会安寧の為にも勤労努力し、(子弟)教育に励むべしとも教えられては育った筈で、アメリカ合衆国の為に身を奉げる覚悟を持たなければならないとか、漢民族中国や朝鮮民族とは徹底的に戦うべし、また、ロシア連邦とも一戦を交える等の、言わば、何時でも戦争が出来る国家体制に日本国家社会は在らねばならない等の、首相安倍晋三の示唆する、隷属性の奨励や好戦性の現わしなど、家庭や学校に於いて教えられたり、学んだりする事は露たりとも無かった筈である。

 此の様な、言わば、第三次安倍政権の下、一本足らずの者たちが国会に蔓延り、国家権力を恣にする中で、また、行く末には何れ、日本民族一億総奴隷、一億総足軽への、エントラップメントの貶めが待つ中で、あの稀代の政治家「小澤一郎」先生はいったい何処へと行って終ったのであろうか、気掛かりでは在る。一億二千六百万人を擁する日本国家国民が、異端児とでも言うべき立ち居振る舞いで、国家権力を強いにも司る独りの人物に因って、斯くも忌むべき隷属下への道、即ち、「立憲君主制国体」から君主制を蔑ろにして外すかの如き、非情の待つ歴史へと、唯々送り出され様としている最中に於ける所在不明、”もう一仕事”だけは是非とも遣って貰わねばならないのだが、諦めたのかどうかは扨て措いても、動かない以上は、安倍晋三をして世に送り出した、後無き我ら団塊の世代が、子々孫々の為にも何とかしなければならない責務と時期には在るのだろう。

 何の責務かを問われれば、其れはまさに、時の権力者が恣意的に振る舞う事を阻止しなければならずとするもので、畢竟、我ら日本民族をして小馬鹿にさせてもならず、異民族の奴隷にしてもならず、また、理性在る条理に基づく法の支配を、数を頼んでの無法を以って、忌避乃至滅却させてもならないのである。