日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆原発事故から六年、安倍晋三は風呂屋の釜か。

 GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人厚生労働省所管の独立行政法人)は、第四四半期か通期を以ってしてかは判らぬが、嬉々として発表、其処で言うには、百五十〜百六十兆円の運用資金を以って紡ぎ出した運用益は十兆円に上った事を発表、通算に於いても良い所までの実績を示していると述べ、だから、アベノミクスをしてもっともっと称賛して欲しい、、と、言っている様に聞こえてならないのである。博徒として生きようとするとは大変な国になったものでは在る。

 そりゃあ良かった、お目出度うと言いたい所だが、生死の激しい虚業金融経済を以って為す、而も、国民からの預かり資産を用いての丁か半かの博打的運用、換言すれば、博打たる賭け事での成果、斯かる一時の結果を以って欣喜雀躍し、褒め称え、若しくは、自己満足を要求する何ぞは、到底、個人的には出来る由も無い遊びと言うもの、即ち、証券取引に関わる投資、乃至、賭け事とは云え一種の博打に変わりは無く、当然に勝者も出れば敗者もまた出揃うもの、即ち、投資家全てが総て勝者になれる由すらなければ、GPIFの業績(運用益)の残しは、博打に参加する他の民間人、若しくは、外国人投資家(博徒)から巻き上げし成果とでも言うべきもの、勿論、其の逆も真なり、かつての米国レーガン大統領が、ちまちまとした実業を以って為す富の蓄積よりは、瞬時にして富の蓄えが可能となる、虚業経済たる博打うちでの行為をして国を富まそうとした時期が在った様に、人間社会をしてまともに牽引する事など出来ないのである。

 −閑話休題

 福島県民に襲い掛かり、降り立った件の、天変地異に因る未曽有の大災害(地震津波)の惨禍罹災も去る事乍ら、地震津波の被害に加えた、言わば三重苦とでも言うべき原子力発電所爆発に因る大惨事の責め苦は、六年を経た今も尚、福島県民をして悲惨の真っ只中に突き落としてもいるが、如何に、民主党菅直人政権執政時に於いて惹起させた疫病神の乱舞に在るとは云え、未だに十万人近くの県民をして流浪の民状態に措き続ける自民党安倍晋三政権、基より、何も出来なければ未だしも、宮城県岩手県の復興は遅々としてでも進み、且つ、熊本県の復興計画にすら並ばれては交わされる「天変地異+原発事故」に対する国家対応を見させられれば、彼の自治体をして羨むと言うよりは寧ろ、口先三寸の傀儡子宰相安倍晋三の頭を叩き、叶わない以上非難をしたくなろうと言うもの、況してや、福島県民自身は思ってはいてもじっと堪え(耐え)忍ぶ事を以って是とする県民気質を持つ人々、永らくに在って、山口の邦に於いて暮らし続けてきた事で、東北民の気質とでも言うべき我慢強さを欠落、騙し易いとでも曲解して終ったのであろう安倍晋三自民党政権、原電爆発と言う大惨事の惨禍被害に対して、救済順位が高くて然るべき原発被害者をして、未だに十万人近くの福島県民を放り出し続け、勝手に生き延びよは無かろう。だから、口数の足りない福島県知事ともども安倍晋三は、”貧乏神!、疫病神!、テメェ何ぞは早く 二葉亭四迷!”と、罵られても終うのである。

 また、原発罹災地周辺での子供を抱えた多くの家庭では、原発被害から逃れる為に、神奈川県や埼玉県その他の自治体に、着の身着の侭の状態で已む無く一時避難をし、日常生活の暫定的住処として生活させて貰ったのだが、不幸にして、福島県から移動した家族に起きた事件が神奈川県等で勃発、即ち、転校を余儀なくされた子供たちに対する、小学校や中学校に於ける”虐め問題”が発生、憂慮すべき事態にまで発展し陥ると言う、所謂、完璧に除去する事は不可能にしても、教師を一とする、学校関係者や周りの大人達が気に留め措かなくてはならない問題が、此れまた、安倍晋三の後姿を見て育ったのであろう、所謂、物事の是非は自らの判断に因るものでは無く、外部から良否を指摘されて初めて頭を動かすと言う、所謂、有言無言ともに不実行と為す、教師や大人の増加は致し様をしらずのもの、まさに憂いて然るべき状態にはある。

 基より、余談にはなるが、才能どころか知恵も知能も乏しき子供時代の私個人は、今は亡き母親の実家である会津若松市の(字)門田村と言う、一帯が田や畑の広がるのんびりとした農村地帯に生まれる事にはなるのだが、其れも、馬小屋の二階を借り、姉や兄もまた同時疎開していた中で、父抜きで敗戦(1945.8.15)を向かえた様で、戦地満州の地から生身で引き揚げた兵隊の二男として、望まれてか望まれずしてかは分からぬが、団塊の世代の一人として早速にして生まれ落ち、其の他大勢の一人とはなるのだが、小学校三年生か四年生になる頃には、家族五人揃って東京の板橋区(元は文京区)へと戻り、住まう事にはなるもの、東京生まれの上二人とは異なり、私個人は生粋の会津門田生まれで、七年も八年も会津弁とともに育った、川遊び大好き木登り大好き、林遊び大好きの、”訛り在る”子供で、生き馬の目を抜く世間など全く知らずの小学生、基より、今にして当時を思い返せば、貧乏では在ったが苦にもならなかった時代で在り、即ち、周りもまた同じ世代の子等が一杯で、塾へなど通わず、何処へ行ってもワイワイガヤガヤと遊び回っていた時代、友となる彼等、一、二歳年が上か下の家にも偶には入らせて貰い、”飴玉”を頂く等で、異なるご近所様の雰囲気も何度となく嗅ぎ取りもすれば、そうそう図抜けて豊かな家は無かった事を確信、即ち、我が家と似たり寄ったりの住まいには感じ取れしもの、初夏や秋口ぐらい迄は、半ズボンや木綿の半袖シャツ一枚で、其処等中をすっ飛び回り、勉強などせずに遊び回っていた記憶が浮かび上がるのである。

 勿論、子供ながらにも、自分たち(家族)に比べて格式が高いなであるとか、何処かが違うな(金持ち)であるとかが何となく分かる家(例えば、S工業であるとかG金属であるとかの企業併設の家)も認められもしたし、所謂、我等餓鬼どもとは異なり、可愛く、且つ、身綺麗にした、同年代の娘達の出入りも見られ、また、高級自動車での送り迎えもされると言う、所謂、私立女子校(小学校)等への通学も目にすれば、子供乍らにして溜息すら吐いた記憶だけは遺るもの、此の時期を境にして、持たざる者と持てる者との実存や乖離をして、何となく我が身にも置き換え認識する事と相なるのである。基より、親の稼ぎ高が関係している何ぞは、露ぞ思いも寄らなかったし、考えもしなかった事は言う迄も無い。其れだけ、今の子供達とは異なり、知識の吸収力には欠けていた、と言う事にも成るのである。

 余計な事を言ったが、言った序に云えば、板橋第二小学校の三年生か四年生に転校して間も無く、刈り上げ頭で日焼けが著しい、何処から見ても出来そうにもない同級生がポッと出ては現れ、ズーズー弁の訛り在る言葉で同じ教室に現れたものだから、腕白盛りの子供達にとっては格好のイジメの材料となるのに時間は不要、一週間か十日足らずで、教壇入り口右端に座っていたキカナそうな面構えの西村君から、左斜め最後方に座っていた転校生の小生目掛けてキツイ一発が浴びせられ、而も、杉山先生と言う、大人しい女史教諭が教える授業の真っ最中での出来事、即ち、其の西村君曰く、其れも声を上げての”バーカ、イナカッぺ、バーカ”と続いたから堪らない、我慢する事を忘れ、其れこそ今でも明確に覚えてもいるが、靴を履いたまま自分の机に乗り、斜め右前の西村君目掛けて友達の机上を渡り飛び、捕まえ掛かる喧嘩とはなったのである。勿論、先生が飛んで来ては子供たちの喧嘩を止めさせ、職員室に二人を連れて行って説諭したらしいのだが、西村君に怪我が無くて済み、和平合意をしたらしく、其の後の小学生生活の中では一度たりとも、イナカッぺであるとかバーカであるとかの、蔑みの言葉やイジメの言葉は一つとして受けた事は無く、専ら、喧嘩の仲裁役のみに回っても行ったのである。今にして思えば、西村君の、早めにして浴びせ掛けられた蔑み(イジメ)の言葉が在ったればこその、反応と受け容れ結果、逆に感謝する次第である。

 勿論、虐められ続ける、我が福島県民の子や孫達を焚き付ける訳では無いが、自殺や泣き寝入りなどはもっての外、福島県民の選択する様な事では全く無きもの、親兄弟が動いて呉れなければ、生まれ故郷に在った地元警察署にでも電話を掛け、有りの侭の事情を話して助けて貰う事です。管轄外として捨て置く事はしない筈です。努々、暴力沙汰を以っての仕返し等はなりませぬ。