日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆横綱日馬富士の方がより潔い人物では在る。

 主に、古代人の多くは、朝鮮半島やアジア大陸、乃至は、台湾やフィリピン領域等から、荒波を乗り越えて列島へと渡り、現福岡県の北九州地方や島根県出雲地方、或いは、四国地方紀伊半島地方へと上陸しては移り住み、基より、日本海側の東北地方や北海道等にも、先住民と言われる人々もまた多く居住していた現日本列島へと渡り住んだ人々、基より、上陸を果たせずに命を落とした人々もまた、数知れずにいたのだろう、其れ等の古人が、今に云う日本民族や日本国民を形成する事にはなるのだが、日本国名を冠する事となる、即ち、日本史の分岐点ともなる、朝鮮半島と日本列島との分断劇たる戦争、所謂、衰微の一途に在った百済国からの大和王朝に対する軍の招請や合流に因ってでは無く、倭国(北九州王朝)に対する軍派兵の招請と合流に因って、倭/百済連合軍は、唐/新羅連合軍に蹴散らされる事となる「白村江」での歴史的敗戦(663年)、此れを契機にして倭国(北九州王朝)は、百済国同様に、衰退一途の国家と相成り、即ち、七世紀後期には、日本名を冠した国家政体は(倭国との内戦に因ること無く)、天智天皇の後継を主張する大友皇子が、天智天皇の腹違いの兄(弟ではない)大海人皇子(後の天武天皇)を追撃する大和王朝派を蹴散らして一掃、天智派を破り大和王朝に登場し君臨せし天武天皇に拠って、呼称確立される事となるのが「日本国」、爾来、関東南部にまで其の施政範囲を広めては支配に及び、新たな国家形態を創り上げて行く天武大和朝廷が、外交的にも名乗りを挙げては認められ、「白村江の戦」でこそ敗れた倭国(北九州王朝)だが、完璧に斃れたものではないとし、尻尾を巻いては細々乍らも並立、国が破れた訳では無いと豪語さえする倭国(北九州王朝)が、既に一部利用してもいた「日本(日ノ本)」名を天武朝が借用、国際社会にも日本国名を冠する、其処は新たなる権力者群の台頭と存在を知らしめる国家にもなるのである。倭国が消滅して日本国が台頭すると云うエポックを生み出しているのである。

 斯かる、北九州王朝や出雲王朝、或いは、大和王朝を一とする、大小様々なる豪族たちが合流せし、原初的日本民族を中核とする日本国家に在って、行政府最高指導者としての道を歩む者が、政治的質や性格、或いは、諸能力や倫理性、若しくは、其の適法性や合法性を以ってする、執政権利用の是非に関して、此れほどに永く個人としての疑惑を受け続け、且つ、不信感をすら抱かれ続けた為政者は、現宰相を措いて他には無く、且つ、見られずには措くもの、況してや、国家権力者たる地位に在る己が、広く国家国民の為に法整備を整えては立法府をしてすら介入に及び、不整合にする立法をも促し、若しくは、司法府にも介在、三権の長相揃って、静謐にして不可侵にする国家社会を同時に運営、政治経済社会活動にも目配りをして貢献、三権が個別排他的に持つ責務の遂行と履行に及び、理性在る条理にも適うと云う、国家社会運営をも成す事にはなるのだが、何を勘違いしたのか現下の行政府の長、付与せられし国家権力をして排他的権力であると勘違い、若しくは錯覚、日本国家国民の為に用いるのではなく、異民族支配下に置かれる他国の為、若しくは、他国を支配し差配する異民族の為に使うと言う不条理行為に、躊躇う事無く国権を用い、実際に見ている国民の目の前で、白昼堂々に披瀝、遣って退けると言う、実に、厚顔にも有り、おぞましくも有る政治活動すら見せ付けるのである。

 基より、国権を司る者が為す様々にする犯罪行為をして放置し、況や、反民族的不条理行為をすら看過しては赦すと云う、此れまた、国権をして司る集団たる政党が、一期間こそ野党への下野と云う国権の手放しをこそ見たが、戦後の72年間に亘っての日本国が、米国と云う主たる占領国から、与党に対してじわりじわりと教化訓練指導もされ、且つ、感化、洗脳下にも措かれ、国家社会運営に関わりし政治的権力者群ともども、三権の府をして夫々に動かす指導者層(官僚群)の多くに、資金を含む権力と云う撒き餌を以って傀儡分子が多数配置されても終えば、斯かる岩盤より硬いと言われる「政官財の砦」に、理性在る条理のクサビを以って打ち込み、不条理因子群を破壊一掃し排除するのは至難の業と言うもの、況してや、行政府たる内閣府に因る「人事権や予算権」の事実上にする執行権の取り上げで、独立活動をして仕舞い込まざるを得なくなった”司法権”は、まさしく、”社会正義の顕現”をして発動すべき条理のトリガーを、事前に取り外すべく余儀無くされた様なもの、如何に有能なる司法官吏(官憲機構)とは言え、組織に課せられし重要事項たる不条理の排除と実施は基より、不条理の排除を命ずるべき司令塔の部位をも隔離され、且つ、切り取られたのでは為す術無しとするもの、一党独裁制は表向きには完成こそ見てもいないが、三権分立なる民主自由主義下に於ける理念の尺度に照らして見れば、紛う事無く、民主自由資本主義国体は、其れこそが、完全に店を閉じた侭に放置されているのである。

 己の欲望を満たす為に、国権行使の可能な、実務執行にあたる高級官吏群を動かし、直接的間接的に命じ、若しくは、忖度させる事で、国税の流用から国家資産の払い下げに至るまでを為さしめ、白昼堂々と、其れこそが銃殺刑に処されて今は亡きポーランドチャウシェスク大統領夫妻の行いし不条理行政の如くに、遣って退けて見せたと、名指し迄されているのが誰在ろう、我が国の現宰相たる米国の傀儡子宰相夫妻ではあるのだが、此処まで明々白々にする悪事を積み重ねながら、国会にて詰問されれば知らぬ存ぜぬと白を切り通し、在ろう事か、疑う事は失礼で在ろうと迄、権力を嵩に激昂され、基より、人事権と予算権を握る其の地位に因り、また、官憲の立ち入りすら許さぬ絶対的権力の威光を以って、手足となる直接的とでも言って良いのだろう、配下に措く件の高級官僚群をして、虚言まで吐かせ続け、結果、国家行政の規律をして緩ませ続けても居れば、何れはお天道様の逆鱗に触れて終うにせよ、暫しの間は、狂人政治屋D.トランプ大統領や、独裁国家体制下のムガンベ大統領の如くの振る舞いは継続されて終うもの、必然にする結果こそ考えたくもないが、道々の民たる我ら国民1/3の頭が、未だ”錯覚下の杜撰さ”にドップリと浸かった侭に在る以上、最期まで突き進んで終うかは不透明に措かれるもの、即ち、様々なる痛みをして他山の石とし、自分にも関わりのある事と気付けぬ間は、此の侭に、日本国家社会をして人間家畜奴隷牧場へと囲い続けた侭には措かれるのだろう。

 森友・加計学園問題にしても、国有資産(財産)や国家予算にしても、不当に介入し歪めて終うと言う犯罪行為をさえ犯し乍らも、それらの須らくは、行政当局たる執行機関の遣った迄の事で、至極まともなる行政規範に基づく、与えられし裁量権内での行為(売買や権利の付与行為)であるとし、国益を損じた事に対する罰の付与はおろか、各種処分すら為さずに良しとし、在るまい事か、国益を損じた者をして”昇進栄転”を以って応えると言う、行政秩序とは全く相容れぬ、犯罪紛いの離れ業さえ遣って退けて見せた、安倍晋三現政権、事件に関わる此れだけ多くの証拠が、馬に喰わせる程、多数積み重ねられていれば、逃れる術こそ無いのだが、残念乍ら、国権発動のど真ん中に立つ傀儡子宰相安倍晋三にとっては蛙の面に小便の風情、日本民族が保持する理性在る条理に基づく判断など、屁とも思わずの様、人事権、予算権の取り上げで、検察もまた動けぬ雁字搦めの金縛り状態にも在れば、彼をして諫め糺す機関は日本民族たる国民が在るのみ、手法は、マスメディアの発信力を借りて為す事実証明、其の繰り返しに因る不正事象の積み重ねに、委ねざるを得ないのだろう。残念ではあるが、社会正義顕現の最後の砦となるべき立法府が、不正追及勢力の数少なき構成下に在るが故に、与党自民党内での自浄能力作用が全く機能せずに措かれてもいれば為す術無し、次回選挙が訪れるまでじっと耐えるしか策も無いのであろう。事実を詳細に知る官吏諸氏が、告発者として揃い、国権保持者(濫用者)をして「検察庁」に訴え出れば話しは別だが、訴追者の静謐なる日常すら壊され兼ねずとのリスクもまた伴えば、最悪にして、自分だけは犠牲になっても、国家国民須らくを救えるので在れば其れで良しとする、奇特なる人物の現れなど、現日本国家社会の中で現れ出る人物は誰一人として居る事も無いのだろう。

 己の持つ社会的信念に基づき、良かれとした行為が本で、傷害事件を惹き起こし、横綱引退をすら決意する迄に至った日馬富士関の、当たり前では在るが、人間としての固い信念や決断が一方に観られもすれば、他方、比較にならぬ程の複数の犯罪を惹き起こしては、今尚、国権の座に胡坐を掻き、不敵なる笑みさえ浮かべては日本国民をして見下して愚弄、支配下に置く高級官僚群をして意の侭に、其れも、自由自在に操っては使い熟し、而も、高級官僚群に課せられし全うなる職責すら、内閣府の意向に合わずと官僚自身が判断すれば、権力者の意向にこそ従い、”公僕たる倫理に違えて良し”とさえし、基より、其れは違法下の決断と云うものだが、其の様な国家社会を揺るがす国権濫用事件すら、判っているだけでも複数回を起こし、婉曲に言えば、国民に疑惑視され乍ら、知らぬ存ぜぬは勿論の事、確証となるべき証拠品をして、元々が無いとか、消去して終って、良し悪しの是非やら、有効無効の確認すら取れず、此れはこの侭に措き次回の疑獄事件から改めれば良かろうとの、詐欺師紛いの国権保持者に因る弁が、後進国だけに止まらず、現状の日本社会でも通じて終おうとは夢にも思わなかった事、横綱日馬富士の引退を以ってする潔さに比べれば、何とも比較し得ない程に人的資質の落ちる、国家宰相の倫理観、日本国民が実に哀れでは在る事よ。