日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆会津藩「什の掟」を体現していた日馬富士と、学ばなかった貴ノ岩。

 横綱日馬富士引退に関わる不祥事(検察事案入り)に纏わる問題は、検察側の判断と被害者本人側の親方貴乃花に対する処分の有無を残すのみとなり、(公益財団法人)日本相撲協会に拠る、当該傷害事案に対する社会をして大いに騒がせた件に関し、或いは、有るまじき不祥事の再発防止に付いて等の、所謂、責任の取り方や斯界の在り方に付いての判断と表明こそ為されたが、覆らずに措く相撲協会判断は、多数を以って良しとする慣行に従えば已む無き事としても、理事長名で為した声明文の読み上げ、即ち、理事長を含む関係者全員に対する処分の仕方、或いは、責任の取り方や取らせ方に関わる罰則内容に付いては、納得がいかず腑に落ちぬもの、70年もの間延々と大相撲を応援し続ける一隠れ支援者の、角界に対する独り無理解に因る、戯言や場違い発言などで在るとは思いたくも無い。

 何が納得出来ないかと言えば、其の事件は、半年前に遡る大相撲の巡業期間中の出来事とは言え、力士同士の自由時間内に於いて発生した傷害事件(警察に被害届が出された為)で在り、況してや、母国が異なる力士とは言っても、被害者たる<貴ノ岩>も加害者たる<日馬富士>もともに、27歳と33歳と言う、成人して立派な一人前の指導的力士となり、其れこそ相撲道の中でも”神”の役割りを務める彼等はれっきとした大人達、基より、十歳や十六歳と言う、所謂、一般的に言えば未完成に措く彼等は人物等では無く、指導的人物たる仲間入りを果たして然るべき社会人の存在、更に言えば、当該不祥事の場面に同席していたとされる、横綱白鵬を一とする現役横綱二名(日馬富士を除く)や、相撲教育関係者、更には、立場(番付)上、同輩力士、乃至は、後輩の力士等も、立派な大人として揃い、同席者に含まれてもいれば、相撲協会に因る処分の理由をこそ措くのだが、斯かる傷害事件に関して下した、横綱白鵬横綱鶴竜、並びに、理事長自身他に下した重い責任の取らせ方、乃至は、取り方には、大いに疑問をこそ残そうと云うもの、勿論、加害者たる日馬富士の親方である伊勢ケ浜親方や、乃至は、被害者たる貴ノ岩の親方である貴乃花親方に関しては、地検に因る最終判断が出ていないので何とも言えないが、余りにも過剰なる判断と処し方と言うべきもの、如何に、有るまじき傷害沙汰に発展した傷害事件とは言え、加害者と被害者の間で一件落着し、巷への事件漏洩での横綱引退をも誘うと云う、加害者たる日馬富士に因る、貴ノ岩に対する示談を含む、大きな責任の取り方も見られれば、加えられし結果としての傷害の程度や治療状況こそ重視しなければならないが、示談に措いてこそ然るべきものと判断、また、そう在らねばならないと判断するのである。

 <貴ノ岩の、社会的未熟さを露わにする貧相にする性格がそもそもの事の発端である>

 <会津藩什の掟
 江戸時代に於いて創設された、会津藩校日新館に於ける、幼少期より習う社会規範、即ち、6歳から9歳に掛けての武士階級子弟を集めては、夫々の幼少男児を集めし集団で、毎日に於いて繰り返しに暗唱させられ、自らの立ち居振る舞いと為すべき下記訓戒は、戦後に在っても、一部が継承されて遺りもして、会津藩に於ける教育文化の「礎」にもなったのだが、斯かる資料を借りて留め措きたい。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
  ならぬことはならぬものです。
と、あります。

 基より、現代人にとっては、古臭く胡散臭い教えと言うもので、其れこそが、日本国史始まって以来に続く、身分の上下を基にした、男尊女卑や士農工商等に見られる、上述せし社会的身分を以って上下関係とし、在って当たり前の、人間上下関係の枠組みに留め措くもので、昔の言い分でしか無いと言われそうだが、社会的<掟>の内容としては、基本的には認められるものである。

 即ち、被害者たる貴ノ岩は、自分に対する横綱白鵬の説教をして真面目に聞き入っていたと云うが、貴ノ岩に対する白鵬の説教を、其れこそが隣りで聴いていた日馬富士が、終わりし白鵬の説教と同時に、貴ノ岩の顔にも目を遣った事が紛う事無く窺えもするのだが、其の後数十秒後に起きる横綱日馬富士に因る貴ノ岩に対する鉄拳制裁と、器具備品を用いた咄嗟の叩きが何を物語るかの、惹起をすら知らしめる事にはなるもの、即ち、白鵬に拠る、貴ノ岩に対する説教が終わったと同時の貴ノ岩の振る舞いに、有難うございますも無ければ、以後注意しますの一言も無く、はたまた、申し訳ありませんでしたも無ければ、何の謝りも無しに下を向き、手にしていたスマートフォ―ンに目を遣り、(彼女からの通信に対して)早速にして返信をしようと、27歳の貴ノ岩の脳は己に命じたのであろう。

 横綱白鵬の斯かる説教を受け、終わったと勘違いし乍らも謝罪の文言一つ無く、即座に、振動し続ける手元のスマートフォンに目を落とし、手を遣って見せた27歳の貴ノ岩、此の一連の行動や様子を見ていた横綱鶴竜を一とする同席者は、よしんば、一連の流れを見ていればだが、恐らく、白鵬の説教の後に日馬富士が敏感に感じ取って、件の行動へと移った、其れこそが”気拙い刹那”をして共に感じ取った事ではあるのだろう。即ち、横綱白鵬の説諭や説教に対する、貴ノ岩の無反応と無関心、更に、己の思うが侭に為すスマートフォンへの手の伸ばしは、横綱日馬富士の正義心をして痛く刺激、おぃっ貴ノ岩、大横綱の言っている事を聴いているのか!、の叱責へと繋がり、其れに対する貴ノ岩の反応は、言葉では聞いているとし乍らも、目は反抗的否定心を以って(睨み返し)、隣席にいた日馬富士を見返したのであろう。平手打ちと鉄拳制裁はこうやって作られたのである。基より、貴ノ岩は、睨み返してもいなければ、謝りもしたと「警察」には言った様だが、同席せし人々に、斯かる刹那の時間を記憶している人は多くは無く少なきもの、左すれば、酒の席の出来事とは言え、直ぐに拳を上げる等の酒癖悪き軽薄なる人物には非ずの横綱日馬富士の事、相当にして赦せずが瞬時に頭を過ぎり、且つ、言葉で教えても無駄との思いが、貴ノ岩の咄嗟に示した不快なる反応と目の動き、或いは、表情の悪しき変化を見て、怒りの感情が込み上げ、手も動いたのが、今回の不祥事のそもそもの発端なのであろう。

 被害者たる貴ノ岩は、社会的”礼儀作法”を一切学んでは居らずと判断出来るもので、若しくは、教えられてはいたにせよ、自己中心に地球は回っているものと勘違いし、斯かる錯覚が己を支配せしめた事で、在って然るべき礼を失して終ったもの、一方、横綱日馬富士は逆に、日本民族が社会文化(の一つ)として育んで来たのと同様、モンゴル国でも共通する其れは儀礼的慣習でもあるのだろうが、社会的”礼儀作法”をして十二分に学び、且つ、尊んで来た彼は33歳の好青年であり人物、何れが正しいかは言わずと知れた事、基より、被害者側と加害者側に如何なるのっぴきならない事情が在ろうとも、暴力に因る傷害沙汰は決して赦されずの事でも在れば、当然の事として、加害者である横綱日馬富士は、若し話し合いが付いて居り合えばだが、謝罪や慰謝料の支払いに応じるのは一つの流れと言うもの、基より、今回の加害の責任を取って現役横綱を辞した日馬富士の責任の取り方は立派の一言に尽きるもので、過大にして十二分にする其れこそが、27歳のヒネタ一成人に対する、責任の取り方と言うものではある。

 勿論、日本相撲協会が公式的に断じた様に、被害者側である”貴ノ岩”をして全面的に守る責任と義務は在るとし、次なる正月場所等の取り扱いに関しては特例を設け、例外扱いに措く事を公的に発表した日本相撲協会では在るが、異論は在っても、相撲文化の維持と発展を考えれば已む無き判断と言うもの、基より、怪我を負わせられた貴ノ岩では在るが、其の受けた被害と同等の、若しくは其れ以上の”精神的苦痛乃至圧迫/不快感情”をして、横綱日馬富士を一とする同席者一同に与えた事を、被害者側で在る貴ノ岩も、同様に深く受け留め、条理の一つとして気付かなければならずのもの、遣られた方が常に正しいとは限らない事をこそ、貴ノ岩もまた、人間性の向上の為には習得し学び措かなくてはならない。、

 階段で転んで怪我をしたと貴乃花親方には”嘘”を吐き、また、横綱白鵬を含む<三横綱>を集めた呑み会で在ったにも拘わらず、同じく、出席するとは言わずに堅く口を閉ざし、唯々、高校時代にお世話になった学校関係者の恩師と、同窓生力士との食事会にのみ出席しますと、親方貴乃花に伝えては街に繰り出したのであろう27歳の貴ノ岩、出だしから、驕り昂りに因る虚言癖さえ見せた可能性もまた捨て切れずの貴ノ岩、怪我をした張本人でも在れば、最大限に弁護され、且つ、支援されるべきが当然であろうが、此処は日本国、”目は口ほどにモノを言い”ならぬ、無言にする圧力や圧迫の付加、瞬時とは言え、凝視に因る、横綱等の説教者らに対する不信の付与等は、横綱日馬富士にとって見過ごし得ない否定的にする、其れこそが、反抗的”目付き”と”態度”として映ったのであろう事は、十二分に窺い知れる所である。即ち、見方を変えれば、紛う事無く横綱日馬富士も犠牲者の一人になったとさえ言えるのである。

 更に、横綱白鵬横綱鶴竜、並びに、相撲協会理事長自身に課した制裁は、事の内容から言って過剰なる取り扱いと言うもの、乃至は、罰則の付与と言うもので、遣らなくとも良い、当事者同士以外に対する、其れこそが過剰なる制裁と言うものである。また、当人同士はれっきとした成人せし大人、この様な事象をして万度に於いて斯かる手法を採り入れれば、相撲文化に限らず、格闘技を基にする様々な文化は潰えざるを得なくなるもの、相撲文化を見下した仏国元大統領のサルコジに、再び、笑われない様に善処、措置する事が肝要である。また、横綱を辞した日馬富士に対して、此れ以上の責を負わせるべきでは無く、日本国籍を取得した暁には角界に残る事も承認、一代年寄も認証すべきであろう。差別の現わしなど言語道断では在る。