日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆相撲と相撲道は、日本民族の神事であり祭事である

 スメラミコト(天皇)の下、古の昔から現在に至る間も途切れなく存在し続ける「相撲と相撲道」、基より、現代社会に於ける民族的祭事と称すべき大相撲として顕わされる一つの神事は、形態こそ異なれども、モンゴル国等に於いても祭事として、消えることなく今もなお存在、確かな民族文化の一形態として両国には認められるもの、神事発生の起源は其れほどに古く、日本の「相撲と相撲道」に在っては、モンゴルから朝鮮半島を経由して持ち込まれたと推定されるもので、二千数百年前の弥生時代辺りにまで遡るのではないかともされている。基より、「日本」なる名称は、史家大和岩雄氏の調査研究著書に基づけば、七世紀後期に創られ呼称されたもので、其れ以前のヤマト国、或いは、単体として存在していたと見られる邪馬台国や狗奴国等々を通じても、弥生時代辺りにまで当該来歴が遡ると云う事であれば、相撲と云う神事そのものは神話の時代に迄下る、所謂、諸祭事を含む、列島内に持ち込まれた渡来民族文化の一つと云う事にもなる。基より、正史とされる「日本書紀」の中で、今でこそ初代(ハツクニシラス)と記される神武天皇等は後世に因る創作話の人物、と云う歴史検証は史家の間でも既に広く認知されているところだが、それでも尚、相撲と云う神事そのものが存在していたとの事実は、考古学の調査研究等の発展と成果からも明らか、と云うことは即ち、「相撲と相撲道」の原形は、何代か続くスメラミコトの神話の世界の話しではなく、実在していた史実と云う事にはなる。

 左すれば、現下の日本社会に於いて喧しく騒がれている、所謂、相撲界で発生している反社会的事象、即ち、力士や親方衆に因る違法賭博行為への参加であるとか、其れに対する処罰や処分であるとか、はたまた、組織改革や対策の練り上げが相撲界の現状には必要である等々の物言いが、メディアを借りた喧しさとして増幅されてもいるのだが、斯かる言い分を其の侭に受け留めれば、民主党の党首であった鳩山由紀夫や党の幹事長でもあった小沢一郎両氏に対して為された、云うならば、謂われ無き突き上げと同様に、マスメディアに因って不当に煽られたにも等しいもので、其れは恰も、相撲界は、「相撲と相撲道」そのものに根差す悪の権化であるかの如くに喧伝、非難排除すべき対象とするが如き物言いは本末転倒のもの、良質性を求める日本民族の日常的社会態様の全否定とも密接に拘わる其れは物言い、少なくとも、マスメディアを介しての斯かる喧伝は、相撲文化の条理そのものを根底から損なうのではないかとの危惧を抱くのは当然で、民族社会と密接に関わる相撲文化が破壊されぬかどうかの見極めこそが肝要ともなるのである。

 今風の言葉に置き換えてみると、祭事を司る巫覡者が、国津神の下に生きる道々の民に成り代わり、五穀豊穣や安全と健康、繁栄や発展を祈願し、更に、悪霊や怨霊の除去をも念じ、太陽を基とする水(海)や山の八百万の神々に希って祀り、其の祈願儀式の一つとして、闘う「相撲」と云う形を以って天上界の神に奉斎された事が、モンゴルから朝鮮半島を渡って北部九州や出雲等にもたらされた、当該相撲文化の国内に於ける発生起源ではあるのだろう。スメラミコトの下に、或いは、王や族長の下に、相撲文化もまた歩み続けて来たと云う事実は反論の余地すら無く、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔が天皇家に絡み付いてからの千三百六十五年、或いは、天皇家からシオニストユダヤ系大財閥資本家群に乗り換えてからの六十五年と云う、所謂、宗主乗り換え時間の経過に在ってすら、日本の相撲文化は何一つ変わることなく粛々と続いて来ているのである。

 力士、床山、トレーナー、或いは、親方、若しくは、部外者では在るが、タニマチと云う、所謂、角界と其の取り巻き陣営に因る、社会的人間としての個人に纏わり付いた、未公認博打に興じたとされる不祥事や疑惑を以って、マスメディアが、「相撲と相撲道」そのものに迄網を被せ、在ろうことか、同一の不法行為として追い落としを求める何ぞは言語道断であり愚の骨頂、如何に数十名にも上る角界関係者が当該不法行為に直接手を染め、若しくは、手を染めているのではないかとの疑惑を持たれたにせよ、「相撲と相撲道」とは全く別個の範疇に入れて考えるべきもの、社会的責務を担う人間一個人の問題として切り離すべきが条理、斯かる不祥事や不法行為として取り沙汰されている件の問題は、別個に捉えて然るべきではあるのだろう。力士、床山、トレーナー、或いは、親方が居なければ、「相撲」そのものが成り立たないではないかとの主張も在るが、否、「相撲や相撲道」を究めたいと望む日本民族は、巫覡者になりたいと望む者同様に、少なからずに存在するもの、土俵と云う神聖なる場で、「神と鬼」、「正と邪」、或いは、「良と悪」等々を顕現し、若しくは、吉凶を占われる中での、神事としての「相撲と相撲道」を、率先して体現したいと欲する日本民族/力士は、少なからずに居るもの、二千数百年にも亘って延々と続く、其れは「相撲と相撲道」と云う、良質ある民族文化の一つであれば、我ら道々の民がそう易々と見限ったり見捨てたりなど出来る由すらなきもの、瓦解する事等ないのである。

 あの日本を駄目にした藤原一族の始祖とも云うべき百済の王子豊璋は、天智天皇率いるヤマト朝廷の力を借りて百済国再興へと向かったが、唐/新羅連合軍に呆気なく破れ(白村江の戦い/663)、自国滅亡後に亡命帰化して中臣(鎌足)姓を名乗った人物、其れは同時に中臣神道の祭祀権を乗っ取る事をも意味するのだが、其の後、蘇我一族に対する粛清と史実からの抹消を、持統天皇とともに策した子の藤原不比等を持つ中臣鎌足に対して、天智天皇により藤原性を下賜されたのが、不遇を託つ日本民族の始まり、原点ともなるのである。付言すれば、藤原一族が、中臣神道を乗っ取り、或いは、鹿島神宮春日大社の祭祀権をも乗っ取る以前から、「相撲と相撲道」は民族祭事として既に成立しており、或いは、神事として取り入れられていたもので、現に呼称される「大相撲」の「大」は、歌舞や語部、或いは、民族神道をも司っていたオホ氏(多、大、太、意富、、等の)一族の、所謂、「オオ、オホ」氏ではないかとの推測すら引き出させて呉れるのである。

 現代社会に住まう我ら道々の民の多くは、スモウと云う民族的祭事を、江戸時代辺りの日本民族が作りし単なる競技としてしか理解していないが故に、角界に於いて発症した当該不祥事をして、「相撲と相撲道」迄をも一緒の範疇に閉じ込め、警察が然るべく下すであろう結論が出る迄の間は、角界懲らしめの為にも本場所を閉鎖すべきであるとか、よしんば本場所の開催が在っても、NHKに拠る生放送の中継は慎むべきである等の、然も尤もらしい言い分がメディア上には氾濫しているのだが、条理の本質を捉えて居らぬ其れは言い分と云うものであって、基より、日本民族が営々として築き上げて来た、其れこそ、麻生太郎の始祖とも看做される、あの日本を駄目にした藤原鎌足帰化以前から既に成立していた、斯かる「相撲と相撲道」は民族的祭事、良質の本質を見極め得ぬ、基より民族文化を理解し得ぬ者の、それは表層的言い分だけでしかないと云う事である。

 NHKが、一昨年来頻繁に抜き続ける唯一の拠り所とする宝刀を抜き出しては、今回も同様に身構え、世論が示す大勢はとの上段の構えを取り、名古屋場所の相撲中継を68%の人々が否定しているので今回の放映中止を決めたとの会長発表があったが、此れも第三帝国官僚政府、即ち、あの日本を駄目にした藤原一族末裔の息の掛かる、NHKならではの思慮を欠く即断と云うものでしかなく、基より、愚びたる決断でしか無きもの、良質性を常に追い求める日本民族としては、自覚無き、歴史認識無き、また文化感覚全く無きの、其れこそが良質を欠いた決断と発表、民間から招へいされた福地会長を筆頭とし、キャリアー今井副会長以下に並ぶ経営陣に因る、其れは見事な迄の民族祭事の押し潰しであって、今上天皇の下に総じての日本民族が集う、民族神事に対する妨害以外の何ものでもない。

 明らかに法を犯した力士や親方、或いは、床山やトレーナーが居れば、公私の判断を以って摘み出し、法違反の状況や程度に因って処分を下せば十分のもの、「相撲と相撲道」までを一緒にして本場所を取り止めにしたり、或いは、中継放送を止めたりの反応や行為は、力士が取り組む相撲の力士そのものに重きが置かれ過ぎ、本来に於いて顕現されるべき民族的祭事、並びに、神事を、遍くに於いて軽視、若しくは無視するが如きもの、「相撲と相撲道」存在の本質に対する無知が惹き起こす、其れは愚行でしかないのである。

 因みに、相撲協会の役員達に拠る、親方や力士等、角界参画者に下された処分に付いて言えば、初犯者に対する処罰としては余りにも厳し過ぎる内容、其の一方で、本場所開催の決断をした判断は、彼等役員や理事達の須らくが、「相撲と相撲道」が古の昔から天皇家とともに歩み続けているとの神聖なる奥儀を、一様に理解していたかどうかは別として、正しい判断ではあった。即ち、繰り返しにはなるが、「相撲と相撲道」は、我が日本民族が現に良質在る生存を受け継ぐ中で、其れも延々と、良質性を希う民族祭事として執り行われて来た文化の一つ、よしんば、協会役員が挙って不開催を決意したとすれば、天上界に坐します天津神の逆鱗にさえ触れる事も推測可能、九州東部で発生した口蹄疫発症に因る災害や、九州南部で起きた局所的大降雨に因る土砂崩れ災害等で済まされる事もない。