日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆「誰が小沢一郎を殺すのか」を読む

 汗流して立ち寄った駅前の本屋さん、と云うよりもデパートのブックショップ、今、わがひなびた町からも本屋さんの一店舗が消え去り、片道三十分以上の時間を要する駅近くのデパート本売場へと行かねばならず、その本屋へと立ち寄った時の事である。勿論、入用であれば、今では書籍等の殆どはパソコンを利用して自由に買え、二、三日後には入手できる時代に在る事ぐらいは知っているが、身体、特に、足を使わぬ事から来ていると思しき老いを近年頓に自覚させられている事で、片道三十分、即ち、往復一時間程度は、歩数に直せば約八千から九千歩ぐらいは、健康を維持するには程々に十分なる距離で在ろうことに納得、歩くことが苦にもならなくなったが故に隣の駅へと出向いた次第である。

 何冊かの新刊書を手にし、更に目ぼしい本を見付けるべくぶらりと書棚を見渡していた中で、瞬時に目に留まったのが次の一冊、すなわち、「誰が小澤一郎を殺すのか」(カレル ヴァン ウォルフォレン著 井上実訳)なる題名の本が目に留まったのである。一見すると、毒々しく、物騒な迄のタイトルを冠した本では在ったが、加えて購入、四、五千歩を掛けて持ち帰り、読ませて頂いた次第である。

 「誰が小澤一郎を殺すのか」との物騒なる題名の本ではあったが、タイトルには似合わず比較的におとなしく記述された分析から成る其れは論文、基より、予期した内容を大幅に超える事こそなかったものの、現代社会に住まう日本民族の、就中、我らその他大勢の道々の民と国家社会を実体として支配する選良民との、明らかに異なる居住空間の存在を、オランダ人でも在る著者が的確に、其れも、間接的話法を以って指摘していたと云う事実には大いに驚かされ、恥じ入った次第である。換言すれば、日本社会の政治経済に関わる、所謂、社会正義に裏打ちされて存在すべき言論界をも、同時に背負って立つと自負する大手マスメディアですら、疑問符の付く政治事象に対する条理在る調査と分析を為すどころか、条理在る指摘すら一度として継続された例がない事を指摘され、更に、視聴者もまた其れを求める事は一切無かったとの著者に拠る言われ方には、日本民族の一人として唯々恥じ入るばかりでしかないのである。

 外国人で在りながら、比較的に珍しく日本の近現代政治史を研究し続けている著者ウォルフォレン氏は、恐らく、日本の現代政治を司る、或いは、現代政治経済に関与する者たちを見ていると、余りにも憐れに見え、且つ、みすぼらしく彼の目には映り、啓蒙書としての一書を認めずにはどうしても居れず、民主自由主義社会を標榜しながら一つとして顕現せぬ日本社会に、腸が煮え繰り返って終ったからではあろう。特に、菅直人以下四百名有余の民主党衆参両院議員に対して、はたまた、一昨年夏に、熱く篤く民主党と其の候補者に声援を送り、鳩山由紀夫/小澤一郎両氏主導に拠る民主党を、前年度に為された参院選に続く衆院選でも圧勝させた我ら道々の民に対する、其れは、諦めても眠ってもならず、同時に、流されてもならずと、著者は声を大にして条理を求め、原点に戻らねばならずとの、理由を付しての啓蒙書としたかったからではあるのだろう。

 論文「小澤一郎を殺す」で分析し、結論付けている事は、端的に言えば、道々の民が自らの首を絞めて自らを殺すと云う事を言っているのであり、基より、殺す主体者ともなる者は、権威主義に陥り、他力本願に流される我ら道々の民以外にはなく、其れは、条理に覚醒せぬ侭、即ち、被洗脳の侭に措かれた条件反射からの解放と、条理在る覚醒そのものがなければ、結果的に、民主自由主義の真の唱道者であり、民族の自主自決、独立自尊を標榜する稀代の政治家小澤一郎を「殺す」事、即ち、小澤一郎を政治的に葬り去ると云う事は、日本民族を構成する道々の民自身が、現在に至る二千有余年の国権差配への関与不能も去る事ながら、将来的にも永遠に、国権への関与から外される事を意味しているのであると結論付けているのである。

 勿論、条理に基づく民主自由主義の萌芽や成長そのものを、事前に、其れも、悉く摘み取るのは、道々の民をして権威主義に貶める其の被対象とされているマスメディアであり、且つ、検察庁ですらあるとも著者は看破しており、就中、斯かる二つの権威在る組織は不可分に、其れも有機的に結合し合っていると迄見抜いているのである。基より、政治理念はおろか国家理念すらあやふやな、唯々国会で、挙手起立要員の役割を為して得心する四百名民主党員の無為無策、並びに、禄盗人体質を平然と受け容れる彼等の責任大としてもいるが、実に的を射た分析ではある。

 日本の歴史に於ける初めてとでも言うべき、所謂、日本民族国家社会に於ける「民主自由主義」導入の、初の唱道者となり導入者もなるべき”小澤一郎”を、作為不作為を以って外すべく動いたのは、紛う事なく、マスメディアであり検察庁であり、菅直人を一とする民主党の国会議員、更に付け加えれば、権威主義に陥り他力本願に流れる我ら道々の民であるとの著者の指摘は、的を適切に射ているが故に、背筋に冷たいものが走った思いともなったのである。

 「誰が小澤一郎を殺すか」の具体的主体者は、明示もされず挙げられこそしてもいないが、言われずとも理解は可能、但し、日本社会の奥深くに迄は未だまだ踏み入ってもいない著者の現状に一抹の物足りなさも感じない訳ではないが、此処では声援を送るだけに止める事にしよう。何となれば、斯かる分析の役割は、民主自由主義の芽を摘み取り、台頭を妨げる張本人とされている言論界から現出して当然と考えるし、また、そう在らねばならないと固く信じているからではある。