日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆海江田大臣よ、条理を封印するのは良くない

 日本民族総じての御慶びとすべき其の御目出度い年に、即ち、過ぎ去りし2009年に於ける、御成婚五十周年、並びに、天皇御在位二十周年と云う煌びやかなる特別な祝年に、我ら道々の民からの御慶びを等しく受け容れて頂いた天皇陛下並びに皇后陛下より、我ら道々の民の赤子に対してもまた慈愛の念を広く下賜されていたで在ろう、即ち、顕わされて当然の「恩赦、並びに特赦」の下賜であった筈のものが、宮内庁に其の司令塔を置く、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔に因って、其れも、唐突に、須らくの御慈悲の下賜を遮られて終った事は、如何に、制度として存在する恩赦法の執行等に行政府が主体的に為すべくの決定権を握ろうとも、天皇家との間に関所を設けられて遮断されて終った事は残念この上ない慶事の不顕現でもあったのである。

 2009年と云えば、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔でも在る麻生太郎氏率いる自民党が、戦前の予測通りに悲鳴を上げてバッタリと斃れては棺桶に入れられ、其の代わりに、鳩山由紀夫氏を党首とする、所謂、小澤一郎/鳩山由紀夫両氏主導下に成る民主党が、日本の近代政治史上始まって以来とでも云うべき道々の民の総意を受けて、国権を執行すべく、多数の一年生議員として国会に送り込まれた記念すべき衆院選の年でも在ったのである。即ち、戦後の略全期間に亘って国政を掌握、国権を欲しい侭にし、対米隷属に牽引し続けて来た政官財学の政党部門とでも云うべき選良民組織の自民党から、名も無く貧しく、且つ、一つとして美しくも無い党員の集まりでも在る、所謂、稀代の政治家である事が今にして解かる小澤一郎/鳩山由紀夫両氏主導下の民主党へと政権運営が完全に移行した、云わば、無血革命の成就とすら云える2009年の日本でも在ったのである。

 麻生太郎率いた当時の、自民党を一とする体制側の総動員に因る、所謂、小澤一郎/鳩山由紀夫両氏に対する”貶め工作”は、当該衆院選前の、所謂、2008年中頃より拍車が掛かり、体制側に因る徹底したあら捜しが権力の乱用を以って厳しく継続されてもいたのだが、其れでもなお道々の民の意向は変わらず、両氏率いる民主党を支持、参院選に続く衆院選での民主党支持をも表明、無血革命とでも云うべき体制の変革を顕わし、結果、64%超の議席数を、我ら道々の民は民主党を以って得さしめた事は云う迄もない。

 2009年と云う、国民が総じて御祝いすべき其の御目出度い年に、若し、恩赦法が発議され実施されていれば、其れは紛う事なく、藤原一族司法宮に因って嵌められた、あの「鈴木宗男氏」等に対する娑婆への戻りが赦され、最高裁に於いて門前払いとされた証人に因る真証言の開示もまた可能となり、検察特捜部に因る、冤罪、でっち上げ事件の証明もまた可能となっていたと想定されるもの、基より、小澤/鳩山両氏陣営に対する、所謂、藤原一族司法宮に因る国権の濫用にもまた世間の耳目が向かっていたであろう事もまた想像に難く無いのである。勿論、小澤/鳩山両氏に対しては、事件そのものの有無が俄かに取沙汰され始め、検察とマスメディアの連合に因る、作為を以っての不条理劇が幕を開けたばかりのものであれば、斯かる「恩赦法」の蓮華には乗る事もまたないのは云う迄もない。

 此の様な御目出度い、少なくとも我ら日本民族には最良の年であったにも拘わらず、「恩赦法」の適用、其の悉くが固く閉ざされ、日の目を見ぬ侭となって終ったのである。勿論、行政府に拠る適用の発議が可能であったにせよ、当時の、即ち、2009年下期から2010年上期に掛けての行政府の長には鳩山由紀夫氏本人が就いて居り、よしんば、頭を過ったにせよ、自らを利するかの如くに喧伝されるのは必定との考えにも至れば、積極的に発議するには躊躇いも生じ、取り止めたであろう事は想像に難くない。だが、検察庁とマスメディア連合に因る、其の後の遣りたい放題の不条理を些かでも予知し得ていれば、首相鳩山由紀夫は、恩赦法実施の建議を躊躇うべきではなかったのである。よしんば、政治家「鈴木宗男氏」や其の陣営を、”冤罪やでっち上げ事件”からの解放ではなく、恩赦と云う”慈悲心”の下賜を以って救う事にはなっても、自由刑からの実体的解放と、社会正義の顕現に向けての活動は再開可能となっていた筈、躊躇う事もなかったのである。

 −閑話休題

 6日7日と続く国会中継衆院参院)を見続けたが、此処まで酷い質疑応答を視聴したのは久し振りの事ではあったろう。即ち、前鳩山政権時に於いて為された参院予算委員会に於いて、斃れし自民党参議員の西田昌司が孤軍奮闘、政治資金問題を採り上げては大声を張り上げて糾明、返す刀で、小澤一郎氏陣営に対する、曰く因縁付の「冤罪、でっち上げ事件」に、自民党の為政者として加担、質疑どころか、罵詈雑言の御託並べを以ってPRとした様、其の時以来のものであった。

 勿論、7日の参院に於ける特別委員会に於いては、件の、西野昌司議員の政府閣僚に対する、就中、総理大臣菅直人に対する口汚い罵りが、場外から途切れることなく浴びせ掛けられていたが、質問者に因る質問が拙いのか、はたまた、菅直人の異常性が徹底しての空回りなのかは判断の分かれる所だが、何れにせよ、議会が条理を以って進まずに在った事は云う迄もなく、特に、時計の針を気にする菅直人の虚ろな眼と其の表情には、場外から罵詈雑言を浴びせ続けた自民党西田昌司議員の乱射を以ってしても、勝てなかったのである。

 最早、愚政を露わにし、内閣の体を一つとして成していない菅政権だが、ロシア革命後に於いてトロツキーが政権を掌握していれば、恐らく現状の菅直人と似た様なもの、即ち、菅直人は、一小市民の事大主義者であるのと同時に無政府主義者に成り得ていた筈、即ち、国会や議会何ぞは、権力保持の一つの道具でしかなく、叡智を集めて国家社会を動かし、道々の民を代表する政策立案、並びに、実践の場である等とは、努々考えもしなかった事ではあるのだろう。

 民主党員と、不条理の被洗脳下に置かれた多くのサポーターは、最悪なる人物を党首に担ぎ上げて終った様だ。海江田君よ、大臣職を辞する前に、自らの正当性を主張し、我らに開示しなければならない。其れも早急に。