日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆中国も韓国も自らの足許に目を遣るのが先決

 彼曰く、”福島の再建なければ日本国家の再生無し”と、新年に於ける慣例とされる事始めの儀で発せられた言葉、伊勢神宮に参拝せし後に、国民に対する年頭の挨拶を以って再度弁じて見せた首相安倍晋三、単なる政治家として為す軽々しい口先男の受け狙い発言なのか、そうでは無く、人為的苦境を託つ国民達を真に慮って為す、即ち、原発事故の発生で、四重にも五重にも及ぶ苦境を強いられている福島県民の現況を慮ってのものかは定かでないが、渡来系坂上田村麻呂率いる大和朝廷一群に敗れはしたものの、煌びやかなる一時代を東北の地に築いた、彼の古代東北王朝蝦夷の雄たる安倍一族の血を引く、現国家宰相安倍晋三の明言する其れは言辞と在らば、前政権を期せずして担って終った事で、福島県民のみならず日本国民全体を窮地に貶め入れた民主党の、愚びたる、菅直人野田佳彦両首相とは異なり、信用しても良き逞しき人物として映るのは致し方の無き事、況してや、期待通りに遣って呉れてもいるのが第二次政権を担う首相安倍晋三、今年こそ、丸三年目を向かえる今年こそ原状復帰と迄は行かずとも、其れに近い、所謂、不遇を託ち続ける福島県民被災者群の社会生活復帰と再建の為に、夢と希望がともに叶いもする様な、言わば、肌でひしひしと感じられ、且つ、可視的実感すら受け取れる様な思いを、彼であれば必ずや遣って呉れるのではなかろうかと思うからである。

 基より、彼が単なる政治的パフォーマンサーでしかなく、長州出自を鼻に掛ける独り善がりの人物で在ったならば、はたまた、古代歴史学者である古田武彦博士の秀逸なる論文集にすら巡り合ってもいなければ、恐らくは、良質性を以って実体とする第二次安倍晋三政権では在ったとしても、斯かる無防備を以ってする一政治家が推し進める政治政策と結果に対して指し示す受容と高評価は、端っから在り得る事も無かった筈である。勿論、首相安倍晋三自身が喜ぶべきか、或いは、拍手喝采を彼に浴びせては、更なる言行一致の結果を求める吾ら道々の民が、此れから先もなお同一状況が示し得るかは不明だが、此処までの功績を忘れる事も無いとの明言だけは成し得るのである。

 基より、自力更生の意思を生存の本質として肝に銘じておかなければならない吾ら日本列島に住む民、その様な中で、自然災害に因る被災や罹災とは異なり、大いに人為的ではあったとの可能性すら認められる東電福島第一原発事故、斯かる不作為に因る作為を以って惹起されし、人災の観なきにしも非ずの重大なる事故で有りながら、首相職退任後も我れ関知せずをヌケヌケとして貫き通す民主党の代議士<菅直人野田佳彦>の二人、斯様な獣にも劣る人物を我ら道々の民は進んで選んで終った事にもなれば、四重苦や五重苦と云う、筆舌に尽くし難い被災を受けたであろう福島県民、特に、当時の菅直人の執政下に在る行政組織の命ずる侭、着の身着のままに誘導避難させられた事が災いし、妊婦を含めて大量に”被曝”、爾来、家にも戻れず、家族もまた離散してその侭の人々もいれば、引き裂かれた状態の侭に家族の一員が死を向かえたり、基より、望みもせず、考えの一片すら無かった自死すら引き寄せて終った人々も、福島県民の中に数多に見られれば、悔やんでも悔やみ切れず、謝っても謝り切れず、菅直人野田佳彦をして国家行政職の長へと押し上げた、即ち、民主党そのものに一票を入れて選択決断をした、吾ら道々の民の所業を福島県の被災者等に詫びなければならないのだろう。

 其の様な、殆どの罹災民が賠償手付かずの侭の苛酷なる生活を三年近くにも亘って強いられ続け、政治家は口先だけで頼れぬ存在にも在る事を、此れまた再三再四に亘り思い知らされ、落胆させられ続けて来た福島県民にさえ、胸がジーンと熱くなる様な、篤き言葉と手を差し伸べて呉れ様としているのが誰在ろう、あの永遠の宿敵とでも云うべき長州出自を誇る、首相安倍晋三其の人、基より、遣って呉れて当然で在るなどの憎たれ口や減らず口は努々叩いてはならずのもの、菅直人野田佳彦両名が遺した、政治的軌跡の消滅し兼ねない其の線の細さと、無政府状態を露わにせし唯我独尊の無謀や無策に比較すれば、其の国家国民を護るとの政治的功績たるや一目瞭然、雲泥の差には在るもの、長州出自を誇りながらも、度々に於いて東北六県、取り分け、甚大なる被害を受けた三県の被災地を訪れては、人々に直々の言葉を以って勇気を与え、望みを捨ててはならずとの声まで掛け、決して見捨てる事も無いとの言質も与え、特に、生まれし時から反長州のうぶぎを着て育つ会津に入っては、冷徹にする無関心を装う視線を浴びせられながらも、決してめげる事なく、福島県罹災者を助けると云って已まなかった現首相の安倍晋三、誰が現政権を担う其の安倍晋三をして自民党員の口先男と見做し、あまつさえ、あの日本を駄目にした藤原本宗家一族末裔の囚われ人、乃至、傀儡子の一人として断定し、即座に排除すべしとし、若しくは、無視して遣り過ごす事など出来ようか、為し得る訳は無かりしもの、況してや、我が身を盾にして自国を護りし煌びやかなる古代東北王朝を形成せし蝦夷一族の雄安倍一族の血を引く、現首相安倍晋三にも在る事を知れば、奥羽越列藩同盟に血盟せし後世に生きる力無き我等とは云え、弥が上にも篤き信頼を寄せざるを得ないと云う事ではあるのだろう。

 2012年12月に、現職に座る安倍晋三が第二次政権執行担当の特命を受けて総理大臣職に就任、一年を経過した時点で得られる業績評価は、就任当初の疑心暗鬼を覆し、国内に於ける次代を担う若者や青年達からは高評価を受け、一方、老齢期に入り受取り年金額も落とされた(我等)年金生活者や、毎年どころか、毎月にして増え続け、今や二百十五万人を突破した生活保護受給者群からは、思いも寄らぬ辛口評価を貰うと云う総括評価、或いは、政権評価となってはいるが、菅直人野田佳彦と云う、社会正義の顕現何一つ成し得ぬ、一小市民が執行せし民主党政権時に時を戻し、且つ、今もなお斯かる小市民為政が続いていれば、蘘國神社参拝どころの騒ぎでは無く、国家破綻に向けてのアルゼンチン国化が早まり、漢民族中国の尻なめ民族として其の軍門に下る様相すら呈し、シオニストユダヤ系大財閥資本家群の指揮の下、シベリア出兵に向けた準備を加速化させ、朝鮮民族ともどもに自暴自棄に陥ってもいた事だろう。基より、蘘國神社参拝決行で見られるメディア評価もまた一様に厳しいものが在るが、其れでもなお、一時代に比べれば、厳しいだけの論調は取り下げられ、斯かる靖国神社参拝を目視して更なる対日批判を押し進める中国や韓国政府に、遠まわしにする理性在る論理を以って、自らの主張する批判の足許をも見直して欲しい、若しくは、自制すら同時に要求すると云う、今迄とは異なる国論主張に転じた筆者群が増えている事をも、韓中両国に対しては特に、過大なる慮りを以って接して来た我等道々の民は、条理の変化として気付くべきでは在るのだろう。

 勿論、意義は有していてさえ、日本帝国軍が紛う事無く韓国(朝鮮半島)や中国と云う独立国に踏み入り、両国は日本帝国の被侵略国となったのだよと一刀両断に切り捨て、故に、日本帝国、並びに、日本帝国軍をして主導牽引した刑死者をも祀る、神道施設である蘘國神社に訪れ、敗れし国家 日本民族の後世を託された国家権力者群が参拝、礼拝を以って鎮魂を期するとは言え、合祀された斯かる戦犯群にも首を垂れると云う事は取りも直さずに、被侵略国となった韓国や中国々民の条理在る神経を逆撫でするが如き非情なる行為と云うもの、だから、斯かる蘘國神社に対する礼拝は日本の国家権力者群は欠片も実行してはならないのだよ、との韓中両国の言い分は納得の行く言い分にも聞こえるが、其の実態はと言えば、自らの見せてはならない不条理なる覇権外交の本質をすら覆い隠すが如きもの、即ち、かつて、朝鮮総監府初代総監として赴いていた伊藤博文をして、中国国内の哈爾濱駅で待ち伏せし、暗殺を実行した朝鮮人のテロリスト、(韓国では英雄として祀られる)”安重根”をして再度正式に評価し、韓国の英雄として祀る為の石碑を、当該中国領土の哈爾濱駅近くに建て、習近平率いる中国政府は認めて欲しいと要望、其れを受けて習近平率いる中国政府は快諾の方向に向かっていると言われ、国家としての中国は、全面的に、韓国の申し入れに対する受け入れを支援する、との内諾すら与えてもいるとされれば、テロリストの犯罪者を国家群が祀ると云う、言わば、双方の不条理行為を分析せずとも判明する事は、韓中両国ともに示す独善的政治判断に因る犯罪の奨励、普遍的法理念の欠如国、不条理なる国家と言う事にはなるのだろうだろう。

 直接謝罪を為しても赦されず、精神的文化とでも言うべき慣行慣習の部分を押し曲げてすら良しとさせて貰えず、誠意ある文言を補足して説明、誓約すらしてもなお赦されず、遂には、民族文化への国家権力者の関与そのものを認めないとする第三国の中国と韓国、並びに、欧米や露国、彼等とは異なる民族に形成されて久しい民族精神や民族文化を否定して悉くに廃棄せよと強い、左も無ければ韓国や中国に永遠に頭を垂れ続け、言われるが侭を四の五の言わずに受け容れよなる言い分の押し付けの何処に、普遍的条理が認められるとでも云うのであろうか。基より、漢民族中国が今なお不当を以って領有し占領し続けるチベット民族と其の領土、新疆ウィグル民族と其の領土、モンゴル民族と其の領土、朝鮮民族と其の領土、並びに、満民族と其の領土等々に見られる、明らかなる不条理性を現に継承した侭で、在りし日の日本帝国が為した大陸進出を一方的に断罪するのみで終焉させ、自己正当化を謀る何ぞは不穏の極み、原初的集団社会に因る正義なる概念の押し付け、強要そのものではあるのだろう。

 過去の出来事に対しても、是は是、非は非として直視し理解、認め続け、乃至は否定し続けなければならないと云う条理そのものが変わるものでは無く、首相安倍晋三もまた靖国神社参拝後に於いては、首相職として位置する中で、民族文化としての礼拝とその実践を補う意味で言葉を以って説明、政治体制こそ其の時々に於いては異なっていたとは云え、国家若しくは国家組織の命を帯び、国家社会の為に生命を奉げたつわものの数多に眠る御霊、其の鎮魂の為に頭を垂れ、同時に、御霊として眠る異国民の御柱にも哀悼の意を奉げ、とも成る御柱に向かって、”不戦”を誓っているとの首相安倍晋三の談話、斯かる内面の晒しをも否定する韓中両国の原初的権力者群、最早、民族に根差す死生観に関わる文化そのものを微に入り細に亘って説明をしたにせよ、端っからの拒否、聞く耳持たずは避けられずのもの、況してや、民族浄化を、不条理にもユダヤ民族やロマ民族にも迫ったヒトラーをして、東条英機と同一視して見せる何ぞの芸当を、得意げに、其れも平然として国際社会に吹聴せしめる当該両国、在り得た話しでは無く、其れこそが費用対効果上、外交団を連ねての説明行脚は無駄と云うもの、換言すれば、徒に過去問を持ち出されては厳しい詰問を受け、しどろもどろになり狼狽える中国や米国、或いは、その他戦勝国群等のいかがわしい弁解何ぞは聞きたくも無いのである。

 原発事故との遭遇で苦しみ続ける福島県民に、首相安倍晋三は見捨てずとの言質を与え、プアーなる動きの百済系行政官僚に鞭を入れ続ける彼、其の様な条理の道に邁進する安倍晋三蘘國神社参拝を以って、どうして、好戦の奨めを策してもいると断じるのであろうか、在り得ずのもので、如何に文化風俗が異なる漢民族中国とは云え、或いは、韓国とは云え、自国が歩みし不条理選択の道を棚上げにした侭、異国批判のみに有限なる時間を費やすべきでは無かろう。己の歩みし不条理の道を顧みて非を認識、是正してからの後にしてからでも遅くは無いのである。