日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆次の横綱(昇格)は、二年内に、逸ノ城で決まった。

鶴竜の次に現われる横綱は、心身ともにする更なる自己研鑽を積み、謙虚さを身に付け、飾らず、驕らず、地道に、相撲道に打ち込めばと云う条件付きで、向う二年内には紛う事無く誕生するであろう横綱、其れは”逸ノ城”を措いて他には無い。−

 蘇我氏物部氏の勇躍時代に在っては既に、兵どもを擁して為す神々の舞いとしての戦い儀式を介して為す、所謂、五穀豊穣、体制安泰、武運長久祈願等に迄体系化していったと考えられるのが”日本大相撲”の発展史であり歴史、基より、相撲に関わる振る舞いだけをとって見れば、古代モンゴルや朝鮮半島を経由して日本列島(出雲、若しくは、博多)へと持ち込まれた、四、五世紀にまで遡る事も可能な”相撲”である事の原形も在るが、今尚、広大なる草原で舞う(戦う)モンゴル相撲とは異なり、八百万の神々が戦う(祈願する)場としての土俵の設えや、四神が宿るとされる吊り屋根の設置に於いて、或いは、戦う為の力士や、勝負を判定する為の行司役のしきたりや所作、更には、勝敗決着後に於ける其々の力士や行司等の為すべき振る舞い等々に関して、神々の舞たる相撲そのものの本質は、モンゴル相撲と変わらずとも、力士の内面と外形上に於いて為す振舞い、所謂、相撲そのものの儀式に関するしきたりや振る舞い等は、永い年月の経過を得て研磨され、モンゴル国と日本国との大相撲とでは明らかに異なっても見える相違が在るのである。基より、異なって来て当然ではあるのだろう。

 果て扨て、聞いたことの在る様な御託の並べは扨て置いて、横綱白鳳三十一回目の優勝で幕を閉じた先の九月秋場所では、迂闊にも、初めて其の名を耳にする新入幕力士の名”逸ノ城”が大活躍、二大関稀勢の里豪栄道)と一横綱鶴竜)をいとも簡単に破り、あわや優勝決定戦の千秋楽の大一番は有りかと云う快挙まで成し遂げ、十三勝二敗の好成績を修め、殊勲賞並びに敢闘賞の二賞を受賞、新入幕の秋場所を終えた前頭十枚目の彼は、初土俵を踏んだのが今年の一月初場所と云う短期浮上型の新人力士なのである。また、髷の未だ結えぬザンバラ髪が示す様に、異例の出世、番付階段の上り詰めである事が窺い知れようと云うものである。

 確かに、其の大きな体躯に似合わずの機敏さと柔軟さを身に付けての取り口は、関脇か大関クラスのものと言って過言では無きもの、並びに四つを組んでの取組そのものが技術力の高さをも見せ付けてもいれば、僅か六場所での幕内入りは、当然と言えば当然の実力見合いのものではあったろう。また、其の風貌たるや逞しく、一発見に在っては、ドキッとする様な表情の怖さが見て取れ、ザンバラ髪を以って増幅させて呉れたものだが、十日目、十一日目と、見慣れるに連れては紛う事無く、雄同士が格闘せし直後の百獣の王の顔、勝利せしライオンの顔付き其のものではあったろう。久し振りに目にした、いやっ、六十七年目にして初めて目にした、逸ノ城は、大物感を漂わせる新人力士の登場と言って差支え無かろう。

 と、此処までは誉め称えてもみるが、土俵上の振舞い(例えば、四股、蹲踞、仕切、立会、手刀、懸賞金の受取等の仕方)に於いて、若さゆえとは言え未だまだ拙速で且つ勉強不足の感は否めずのもの、基より、力士”逸ノ城”は、二十一歳のれっきとした成人であってみれば、入幕後間もないとのエクスキューズは不成立、相撲道に於ける礼儀作法や、法規、しきたり等の身に付けは、湊部屋の親方や先輩力士、或いは、相撲道と相撲そのものをも教えて呉れる「相撲教習所」で、其の多くを必修課目として学んで来ている筈、であれば、二大関、二横綱に対する取り組み姿勢、所謂、土俵上での振る舞い、特に、二大関、二横綱に対する蹲踞や仕切、或いは、立会に於いての遣り方(手の付き方と当たり方等)全てに注文が付こうと云うもの、神々の振舞いとは言え、逸ノ城に与えられた慶ぶべき大関横綱戦の四番は、全く芳しく無く、且つ、潔くも無く、真っ当な勝利であり敗戦であったとは決して言えない事を苦言として呈して措きたい。相撲をとると云う事は、単に土俵を借りて取っ組み合いをし金を稼ぐ場だけでは決して無く、神々が舞い、力士が代行して戦い、且つ、諸祈願を為して代理奉納するもの、単なる競技では無いのである。

 即ち、先ず第一に指摘しておきたいのは、土俵上での組み合いに至る過程での、蹲踞と仕切の動作其のタイミングに於いて、在ってはならない事だが、新入幕で且つ前頭十枚目の逸ノ城(神)が、最上位に位置する格上の二横綱や二大関の神々に対して、在ろう事か、先に蹲踞をさせるべくに促す様な、無言の立ち尽くしを四番ともに挙行、即ち、二横綱、二大関に対して、先に蹲踞させると云う愚挙の冒しをしたのである。勿論、在ってはならぬ態度、更に、蹲踞から戦いの仕切に移る其の動作もまた、格下である逸ノ城が、二横綱、二大関の仕切を促す様に遅れて仕切ると云う、目を伏せたくなる様な所作を、逸ノ城は四番ともに遣って終ったのである。己はいったい何様の積もりで居るのかと、(私個人はTVに向って)言ったものである。

 謙虚さを学んでいれば、自らの一連の振舞いが対戦相手である格上力士の神々に遅れることは無く、先んじて蹲踞しては仕切の所作に入り、決して格上に在る相手力士が為す、組み合いに至る一連の動作(待った無しに至る)の邪魔をせず、常に万全を期して待ち、何時でも立てる心構えと準備は、先んじてして置く配慮は当然の事として為すべきでは在ったのである。其れが在ろう事か、二大関、二横綱に対する一連の戦いと其の動作に於いて、つまり、稀勢の里戦、豪栄道戦、鶴竜戦、更には、白鳳戦に至るまで、其の礼を失する場違いなる振る舞いは止む事無く続き、千秋楽での安美錦戦こそ見てはいないが、恐らく、癖として、先輩の格上力士である神々に先に蹲踞させ、先に仕切に入らせ、先に立たせる一連の所作が在ったのであれば、相撲道の”所作一つ”教えぬ湊部屋の親方をして軽蔑するもの、或いは、相撲道の基本一つ学んでいない逸ノ城として、非難するものである。

 更に、批判を込めて云う点がもう一つ在る。其れは格上の対戦相手、即ち、神々の力士ともなった二大関、二横綱に対する、所謂、立ち合いの形が其れ、本より、最後の仕切に至る、相手をして先に仕切らす己の醜き振る舞いにこそ、最大の難こそ付けられるもの、其れと同程度に在る見苦しき難が何かと言えば、大関豪栄道戦、並びに横綱白鳳戦だけは、真正面からぶつかり、新入幕の力士ながら落ち着いていて至極まともな、潔い立会で在ったと云う事も言えるのだが、他の二戦、特に、大関稀勢の里戦と横綱鶴竜戦で見せた、あの、左に飛ぶ奇襲戦法とでも云うべき内容の取組みは、如何に勝ち負けこそ大事の角界とは言え、新入幕で其れも対戦相手として、通常の場面では、横綱大関とは決して組まれる事の無い下位の位置に在る逸ノ城が、幸運にも、自らが勝ち上がって来た其の勝利数を以って、普段には組まれる事の無い大関との対戦が組まれたばかりか、稀勢の里豪栄道の二大関を倒した事で、更に、横綱である鶴竜戦と白鳳戦まで組まれたもの、基より、新入幕で、且つ、前頭十枚目の力士にとっては異例の取組として、斯かる格上神との組み合わせをこそ感謝し、滅多に無い好機ととらえて喜ぶべきもので、若し、逸ノ城自身に、斯かる感謝の心が浮かばなければ湊親方や先輩力士達よりどれ程に貴重で重要な場面に在るかは、稀勢の里戦後には教えて貰っていて然るべきもの、左すれば、此処に云う批判の本ともなる件の、詰まり、大関稀勢の里戦、並びに、横綱鶴竜戦の立ち合いで見せた、胸を借りて然るべき神々に対する、左への飛びに因る目晦まし戦法など、努々在ってもならない事、基より、技とも言えない姑息なる奇襲戦法を、斯かる滅多に無い好機を掴んだ力士が、更に、晴れの舞台として組まれた取組みで、新入幕力士である”逸ノ城”が、斯かる姑息なる手法を二番にもわたって取って見せ、また、姑息な相撲で勝って悦び勇んだのを目にしたとは到底信じられぬ事、私の口から出た咄嗟の言葉は、当然に罵りであって、”このバカモノめが!、もう一度、根性を鍛え直して出なおして来いっ!、何を教えて来たのか、親方衆は!”の二言、ついつい、口汚く言って終ったのである。

 二大関を倒したばかりか、一横綱をも足許に下して勝利の神様役を舞った逸ノ城、勝ち☆こそ同じでも、相撲道を全うして戦うと云う、精神性をも満足させたとは決して言い難き其れは二番の取組み内容、勿論、新入幕の力士らしく、相撲道に於ける技術研鑽の成果を顕わす正攻法を貫き通した、所謂、大関豪栄道戦の一勝と横綱白鳳戦の一敗にこそ、拍手を以って向かえられ様と云うものだが、他の、大関稀勢の里戦と横綱鶴竜戦で見せた二番の取組みはみすぼらしい取組み内容、格上の神々に対する格下に在る己が振る舞うべき謙虚さは微塵も感じられず、或いは、僅かとは言え、相撲道に身を置いて来た己に蓄積しているであろう進歩が、即ち、技量そのものが、どのあたりに在るかを知る上でも、真正面からぶつかって行くべきが相撲の正道ではあった筈、大関稀勢の里戦のみならず、懸賞(賞金)の味をしめた訳では無かろうが、横綱鶴竜戦にまで同じ横っ飛びの奇襲を企てては勝ち、悦び勇む何ぞは、食えぬ内容、基より、稀勢の里戦での立ち合い内容に、湊部屋の親方は何も注文を付けなかったと見えて、逸ノ城に、”柳の下のドジョウ探し”を、再びにしてさせる事にもなったとは恥ずべき事、即ち、潔く無い立ち合いを其の侭に放置して見逃すと云う事は、勝つ為には手段も目的も選ばずとも構わずとし、相撲道など堅苦しくてどうでも良く、単なるルールを配した競技で終わって良かろうものと、前途ある逸ノ城をして勘違いさせて終い、場面に因っては、有能ながら早目の廃業をさえ選択させる虞すら出て来るのである。

 今や、人気力士で先輩力士の一人でもある、前頭筆頭の”遠藤”関の、若きながらも相撲道を一途に捉えては全うしようとする土俵上での取組みと、よしんば、正攻法を以って負け続けても、潔さとひた向きにする姿勢だけは決して失われていない、相撲道が求めるであろう神の舞としての取組みに見られる神髄を、湊部屋逸ノ城湊親方は見習って然るべきである。横に逃げては勝ちをものにし、喜び勇む何ぞは、餓鬼の満足でしか無く、相撲道を見縊った下の下のもの、勝ち☆をこそ拾っても、”価値”などはまったく無い事をこそ知るべきである。

 まだ新入幕で幕内力士として出世の緒に付いたばかりの逸ノ城、勝敗に関わる誤まりし四十八手の理解と、潔さの無い勝負優先の身に付けは、相撲寿命を短くさせるのみならず、神として振る舞う己の相撲人生をして、甚く傷付けるのみに止まらず、何時しか、人望の薄い、”鬼”の役所へと落魄れ果てるだけ、折角、先人力士に憧れて相撲を取る事を決意、また、相撲道を極める資質さえ持ち合わせて入門しながら、勝つ事のみに神経を尖らせ、相撲道の何たるかには全く視線を合せぬ貧困なる精神に陥れば先行きなど無いも同然、同郷の先輩横綱である元力士朝青龍の如き、親方にもならずに、日本とモンゴルを行ったり来たりのウロチョロ政治屋で満足、存在観などまったく無い、強欲なる只の人間に見られるだけ、角界からは死するまで尊敬され、死んでも語り継がれる様な、立派な人物になど成れる事も無いのである。

 習わなかったとか、教わった事も無かった等と言っても駄目、朝に起きてから夜に寝床に就くまでの一挙一動、特に、土俵上での舞(勝負)に関し、土俵に上り、且つ、下りる迄に為さなければならない一連の所作は重要で、厳かで有りながら、而も、品格が求められるもの、その為には、己が相撲そのものを勉強し、実技の習練を重ねる中で取得し身に付けていくもの、相撲の須らくを教えて呉れない湊親方も親方だが、潔さに欠ける取組みを四番続けて為す此の厚顔無恥は、若さ故を以ってしても赦されざるもの、湊親方ともどもに反省すべきである。

 可能性も去ることながら、実力も秘めたと思しき「逸ノ城」、無知の侭に、其れも、勝ち☆優先の相撲を取らせる事は、本人はそれで満足するのかも知れないが、相撲道を極める、或いは、極めつつある神の舞を為す力士達を観に来る観客にとっては、”神”が舞うどころか、”鬼”の為す醜さでの不快さを見せ付けられるだけ、不興を託つ神事など、天皇家に於いても、無用の長物となるだけでしか無い。

 小言を言った序に云わせて貰えば、土俵上に於ける諸仕儀の中で、勝利の力士(神)が受け取る、所謂、蹲踞して手刀を切った後の懸賞金の受取と辞儀の仕方があるが、此れまた多少の問題あり、特に、横綱白鳳の、手刀を切り、懸賞金を受け取る迄は良いが、其の侭に立ち上がり、辞儀に至る動作と、懸賞金を振り回す動作はいただけずのもの、手刀を切った後に遣るべきは、勿論、懸賞金の受け取りだが、受け取り次第に為すべきは、蹲踞した侭の姿勢で執り行なう辞儀行為が正解、其の後に於いて徐に立ちあがり、踵を返して土俵を降り、土俵上に居まする神々に一礼をして、風呂場へ、或いは、部屋へと戻るのが一連の所作ではある。

 横綱白鳳関を超える可能性を持つ、半世紀ぶりに現われ出でた突拍子も無い強さが感じられる逸の城、技量、格式、品位、其の須らくが、観客より認められる力士に育って欲しいものである。もちろん、逸ノ城であれば出来る筈である。