日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆安倍晋三政権の長期政権は遂に確定した。

 小澤一郎衆院議員の元秘書で、元衆院議員石川知裕氏(新党大地)に対する、最終審である最高裁判決が下され、もとより、予想に違わずの上告棄却となり、執行猶予付き有罪判決(禁錮二年)が確定した模様である。勿論、現状に見られる、日本国家の社会正義顕現全く認められずの権力社会に於いて、司法権を含む政治経済状況の、人為的と云うべきか、閉塞感とでも云うべきかは扨て措いても、冤罪やでっち上げ事件の取下げ判決は、明らかな反転の為の証拠が提示されなければ、殆どが有罪となる事を教えているもの、基より、いい加減な証人が、見て来たような大嘘を吐いての調書が証拠採用されようとも、或いは、検察官が、作為的に仕組んだ冤罪内容での調書や証言内容であろうとも、覆される事はまったく無く、基より、有能なる弁護士を立てて応戦したにせよ、哀しいかな、証人の偽証すら再検証に付されることも無いのが、日本司法権の現状なのである。

 左すれば、当該刑訴事案は、貶め在りきが先に成立せしもので、元来が当時首相で在った麻生内閣時に打ち立てられたものであるのは明白、当時の、小澤一郎党首率いる、勢いのある党首自身と民主党に対する、貶めに因る、其れこそが、取り潰し目的のターゲットに晒されたもの、斯かる冤罪が仕組まれてからと云うもの、五年を経た今では、小澤一郎元民主党々首こそ無罪を勝ち得たが、今回の石川知裕氏に至る三名全員が、完璧と言って良いくらいに斯かる冤罪劇で打ちのめされ、政党民主党はと言えば、実質的に倒壊したのも同然の体たらくを託ち、小澤一郎党首はと言えば、今では、衆院に七名、参院に二名のみを配する、小政党の党首へと変化を見、先の衆参両院の選挙では大量に同胞を失うと云う不運にも見舞われる事と相成るのである。

 勿論、間違いこそ在っても、刑法事案となるような不正行為(ゼネコンから受け取ったとされる現金一億円の収賄や、不動産売買に関わる不実記載等々)など犯してはおらず、潔白以外の何ものでも無い中で、何一つとして身に覚えのない犯罪を、官憲に因って押し付けられ、検察審査会事案にすら仕組まれた小澤一郎氏を一とする元秘書達三名、小澤一郎氏こそ無罪の判決を勝ち得たが、元秘書達は不条理にも有罪とされ、夫々が貼られずとも良い犯罪者のレッテルを強制され、額に貼られる事となるのである。入れ墨の彫られより増しか。

 この様な冤罪事件やでっち上げ事件を目の当たりにしてつくづく感じるのは、何やかやと褒めそやされる日本社会(文化)には在りながらも、残念ながら、いとも簡単に民族社会的後進性を、斯かる事件の発生が強く感じさせて終う事ではあるのだろう。勿論、全くの善しか顕わさない社会生活を送り続ける人間など、聖職者の中にすら見られずが常と云うもので、勿論、国際社会と云う斯界で蠢く人間界であれば、不可避とされる不条理行為もまた常備されてはいるもの、小澤一郎氏を一とする元秘書の三名も、潔癖なる人物群と云う積りは毛頭に無いが、同じ日本人に在る、所謂、対峙する権力者に、公権力を不条理に振り回されては貶められる様な、謂わば、一昔も二昔も前に見られる、彼のおぞましくも在った暗黒時代の政体とでも云うべき”警察国家”、乃至は、現代米国にも見られる、”シオニストユダヤ帝国アメリカ合衆国”社会など見たくも無きもの、御免被りたいものでは在るのだ。

 だが、貶めの為の冤罪づくりが実体的に成功を呼び込む中で、即ち、無罪、有罪の差こそ在るが、小澤一郎氏と、石川知裕氏他二名、都合四名にも及ぶ日本国家社会に貢献すべき、有能、且つ、将来有る人物群をして、人々の信頼の切り離しに成功、国家権力の土俵外へと追い出ししながら、更なる追い詰めは続けられ、高裁の地裁判決支持どころか、最高裁までが、公権力を使って企んだ”冤罪/でっち上げ事件”に加担、上告事由に条理無しとして棄却、時間を置いた、其れこそが、社会正義の顕現をして最高裁に求めた”石川知裕”氏に対して、「俺たちに何ぞ頼って呉れないで欲しい、、、」とでも言わんばかりに、「上告を棄却する!」と、最高裁判断を下したのである。

 三権分立は、あるべき国家運営の基本体制として維持されねばならないとし、まさに、民主主義国の絶対理念であると言いながら、或いは、司法権もまた、斯かる国家理念の存在をして、行政権並びに立法権を以ってともに並立する存在であると確認さえしながら、また、並立する相互関係に在る事の断り書きに血判すら捺しながら、自衛隊問題や日米安保問題、或いは、集団的自衛権問題等々に関しては、国家憲法が謳う条理と、政府が表わし示す解釈との間に、疑義有りとする下界からの声、即ち、憲法理解に関わる齟齬有りや無しやが問われる、判断を求める場面が頻繁に発生し様とも、ワレに聞く耳無く、ワレが是非を判断する場面にも無く、基より、ワレがしゃしゃり出て、善し悪しの判断を指導する立場にも無いとの、謂わば、「三無主義」を貫く司法権に在り続けるのは、偏に、政権を握る政府に対する遠慮であり、配慮が在ればこその理念の潰し、最高裁判事に選ばれる可能性も在る時期の到来と羨望が実現した今(昔)、時の権力者に恩こそ在るもので、三権分立の存在を敢えて盾にし、遠慮、配慮して見せればこその疑念判断せずとする無回答の通告が為されるのみ、勿論、遠慮も配慮も無く、概念披瀝を為し、憲法解釈との対比を為したにせよ、時の政府権力者群の解釈に抗う姿勢(解釈)を、最高裁判事諸氏が、三権分立理念を盾にしてまで侵犯に在る事の判断まで下す事は無いのである。即ち、我が日本国に於ける民主主義理念、其の基本ともなる三権分立理念は不存在に在る事を示すもので、然るに、民主主義は存在しない事を教えてもいるのである。

 石川知裕被告に対する上告棄却は、最高裁の現行体制からすれば当然のもので、事案そのものが、行政府乃至立法府にさえ手を突っ込んで終っている以上、此処でもまた、冤罪であるかどうかの判断をする訳にもいかず、況してや、無罪放免に付する事と相成る、”本件、差し戻し!”なる判断が為されれば、事件をでっち上げし当時の権力体制の面子は丸潰れと云うもので、其れこそ、冤罪、でっち上げ事件の新たな下手人捜しが可能となり、法廷闘争は錯綜して混迷を深め、形式主義の国体が更なる形式主義に陥る、明治、大正、昭和前期にまで見られた不条理社会へと舞い戻る可能性すら残す事ともなるのである。

 行政権と司法権が密かに手を組んで刑事事案とした事で、初期目的は略達成、基より、検察審査会事案にまで無理繰りに押し進めながら、小澤一郎氏に対しては「無罪」を以って取り逃した公権力だが、小澤一郎氏に与えた政治的ダメージは「有罪」、或いは、「社会的抹殺」にも匹敵する酷さに立ち至った事は言わずもがな、人心が全く離れて終った民主党の其の後と、新党「生活の党」を立ち上げながら一桁台にまで其の数を落とした衆参両院での議員勢力図を見れば明らか、当時の公権力を担った麻生太郎政権や司法権のシンボルとなった観の在る検察吏員も、ともにグラスと葉巻での祝杯と相成ったのではあろう。

 日本人であれば、如何なる悪党やアウトローではあっても、初期目的を果せば其の時点で停止、更なる追い詰めは、お天道様の下を歩く者の為すべき事では無いとして止め、畢竟、命まで召し上げる何ぞの非人道的行為は論外として封印、永い間に培われた日本の民族文化としていたものだが、91代目福田康夫政権の総辞職を機に封印は解除され、追い詰めた相手はトコトン追い詰め、詫びを入れようが、命乞いを土下座を以って懇願しようが、受け容れ不能と突っ撥ね、在ろう事か、懇願する相手の首を斬り落とし、晒し首にした挙句の果てには、塩漬けにしては敵陣に送り付けると云う、悲惨、且つ、酷い仕打ちを、再びにして平然と為す様になったのである。誰が、その様な惨たらしい仕打ちを命じたのかって、言わずとも解かろう。

 よしんば、小澤一郎氏陣営に加えられた件の、”冤罪/でっち上げ事件”をして、当時の政権政党である民主党幹部クラスが、挙って不条理問題として取り上げ、基より国会の内外で取り上げ、或いは、目には目をの強硬策をも図り、即ち、検察庁に対する”指揮権”を発動して、不条理問題を強制排除する事で、実質的な民主党の党首で在った小澤一郎氏等の無罪証明に繋がる、所謂、司法権に対する逆ガサ入れさえ可能となる両院議員を擁してさえいた筈なのだが、菅直人以下の民主党幹部は誰一人として”冤罪/でっち上げ事件”で在る事の声一つ上げず、逆に、後釜を狙って嬉々とさえする有り様は、其れこそが、現に見られる落魄れた民主党の体たらくへと繋がるもの、社会正義の顕現一つ表わせぬ民主党員が、如何に足掻こうとも、覆水盆にかえらずは云う迄も無く、浮上出来ぬ烏合の衆の一組織として、無駄に禄を食む準国家公務員としての、僅かな満足の時間を以って彼等民主党員は放り出される運命となるのである。

 無理をせず、何事も、ブレインの指図の侭に口を動かす限りに於いては、安倍晋三政権も、小泉純一郎政権や吉田茂政権同様に、長期政権を司る事になるのは自明の理、自民党一途に在った古き民の人心さえ取戻し、懐古主義を思い出させれば尚更に、次の国政選挙は自公両党の大勝利で終わるもの、と云う事は即ち、民主党は黄昏時の政党へと落魄れるのをタダ只管に待つばかり、社会正義の顕現を喪失した、いやっ、本々に於いて、社会正義そのものの備えの無い烏合の衆の集まりに、人心の再結集など在り得よう筈もないのである。

 政治に対する国民の関心の低さは、麻生太郎政権時の上記置き土産の証し、煎じ詰めれば、安倍晋三政権をして、目一杯に、国家権力の執行を為さしめるもの、即ち、シオニストユダヤ系大財閥資本家群が待ち望む、小規模に生きるしか術の無い人間家畜日本民族へと歩ませられる事と相成るのである。