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☆異端爺ドゥテルテ、いざ、何処へ!(2)

 フィリピン国の異端爺ドゥテルテ大統領が国権を握った事で、フィリピン国内の犯罪者、乃至は、犯罪者予備軍達は、何れ近い内には、警官を買収するだけの金も無く、基より、官憲に抗し得る力も無い自分もまた、虫けら同然に殺されると思い込んだのであろう、麻薬犯罪を含むフィリピン国の不法行為者と自覚、乃至は認識せし者五十数万人が、陸続と最寄りの地区警察に出頭?し、”お願いだ!命までとらないで呉れ!降参する!”と言ったかどうか迄は解らぬが、フィリピン国では、収容所に入り切れぬ事態を惹き起こし、ドゥテルテ現象と呼ばれる国民平伏状態まで引き起こしている、と言われてもいる。

 米国大統領に対する、”売春婦の息子が何をほざくか!”との罵声を浴びせた比国大統領ドゥテルテの舌禍事件は、米国大統領と米国政府に対する釈明と全面的詫び入れに拠って、一応の米比間外交的亀裂の修正と、沈静化を見はしたのだが、今度は、遠回し乍ら比国の自分に対する人権擁護の堅守を求めた国連事務総長ハンギブンに対して、スラングを用いた比喩では無く、直接的侮辱の言辞たる「何を抜かしてけつかる、この大馬鹿者めが!」と罵ったと云う事で、ドゥテルテは中々にして懲りずの確信犯にも在る事を、此処では教えてもいるのである。

 法治主義に拠らず、人権等一切無視、自らの持つ国権の、独善的判断と言う形で、其れも文書に遺す指図書(命令書)すら用意せず、警察や検察等の司法権に命令、基より、必殺仕置き人なる自警団を組織して為す私刑の実行にも、斯かる不法集団の一掃を許可、此処でも指図書こそ遺さずに措くが、新大統領のドゥテルテに因る不法弾圧(民族浄化行為を含む)は、一向に沈静化傾向すら見せず、其れも国税を用いて増々の実行下に措かしめてもいるのである。此れが、あの柔和なるアキノ大統領が、今まで執政権を揮っていたフィリピン国の、後進的政治状況にあるとは、俄かには信じ難きこと、実に恐ろしい事である。

 犯罪予備軍に対する、口頭での注意を喚起し続けたり、厳罰に処すると重ね重ねに言い続けたにせよ、一向に法律を守らぬ市民の増加と、其れに比例するかの如くに増え続ける多種類の犯罪と犯罪者群、斯かる犯罪を抑制する為になさねばならぬ事が在るとすれば、ハード面では司法権の充実が求められ、即ち、官憲の増員であるとか、施設(刑務所や拘置所等)の拡充等があり、ソフト面では、罰則の強化や、効果こそ時間経過を必要とするが、教育で在り経済改革、また、国家権力者群が自らの行動を以って国民に現わし示す社会正義の顕現が在るだけのもの、基より、其れらの須らくに掛かるのは莫大なる予算(資金)と言う事にもなれば、根源的に資金不足の続く比国に在っては、官憲の増員も不能で施設の拡充もまた無理、況してや、間近に見遣る犯罪と犯罪者の増加に、教育を以って対処を試みる等の、所謂、悠長なる政策を以っての手法は、将来に向けての改良手法とはなるが、現状の増加傾向を押し止める事にはならずのものと、良し悪しは別として、ドゥテルテ新大統領が断を下したとしても不思議な事では無い。即ち、国は疲弊していて、新たに投ずる資金余力は全く無し、赤字国債の発行等、返済を可能とする財政的裏付け無き比国では不可能、となる事で、現状の国家運営にさえ破綻の軋み音が鳴り響いて来ているのである。

 余りにも荒み切った国家社会状況下の中で、法治主義を尊重し続ければ犯罪者収容施設は足りず、官憲等の職員もまた足りずは明白となるもの、場面に因っては、犯罪者を多数捕まえる事で費用が大幅に膨らみ続け、官憲自身が受け取るべき報酬にも、支払いの遅延や減額の影響が出ないとは限らずにも在れば、軽微なる事案との勝手なる判断で犯罪そのものを見逃し、更なる大罪へと繋げて終ったり、或いは、犯罪そのものを見逃す代わりに、袖の下のワイロを犯罪者に要求したり等の、不法行為を平然として為す官憲等が現れないとも限らずにも在れば、現下の経済的不振がもたらす国家社会の風紀の紊乱や犯罪の増加を見るよりは寧ろ、犯罪そのものを犯しては次の犯罪へと繋げる犯罪者そのものを始末した方が、国民の為にも国家そのものの存続の為にも有益ではあるのだろうと、永年をして不正や不法を以って是とする実態社会と向き合い、法治主義を借りずに目には目をの勧善懲悪を以って対処すらしてきたドゥテルテ新大統領、彼にとっての治安無き国家フィリピンは、自己流社会正義の顕現に対する勘違いを引き出し、あまつさえ、地方行政に在ってさえ通用して来た、斯かる、己に付与されし限定的権力の中での振る舞いを、国権の最高位を得た今に在っては、「権力」そのものに対する錯覚を以って、実力行使に対する無限性をも受容されたと曲解したとしても不思議では無きもの、条理在る社会の仕組みや、法治主義を権力行使の実体に於いてさえ理解出来ぬ、己の為した事に対する是か非かの判断しか為さない側用人の重用と並べ立てだけでは、如何ともし難きもの、国と国との関係に於いてさえ、結果、対立して終ったり、抗争に発展して終ったりは、其れこそ無しとしないのは当然の事なのである。基より、独裁国家と言われる国家の多くは、権力組織の執行や役割に於いて、権力者に対する諫言力を欠く事で、斯かる条理の擦れ違いを生み、且つ、是とさえする所から、取り返しのつかない不条理もまた生まれ出るのである。

 ドゥテルテ政権の誕生に因り、犯罪者予備群が陸続として名乗りを上げ、一度に五十数万人もの国民が手を挙げて降参の意を示し、最寄りの警察所に駆け込み、”殺さないで呉れ!”と叫んだ事は、一見、ドゥテルテ政権に因る狂気的荒療治が成功を収めた結果とも映るが、事と成り行き次第に因っては、テロルの醸成や内紛の原因をも惹起し兼ねずのもの、何故ならば、民主自由主義を無視し、且つ、法治主義さえ拒否する独裁者に高潔にして無私、所謂、滅私奉公に己を誘導して措く人物など、国家社会に居た例は無きもの、中東の巨大産油国然り、アフリカ大陸諸国然り、漢民族中国然り、北朝鮮国然りですら在れば、ドゥテルテ新大統領を擁立した比国も例外には措かずのもの、況してや、ドゥテルテ大統領が、検察官に在った時代や市長時代に在った時も、同様の”粛清”は遣って来ており、成果すら出しているとは言っても、許容し得ずの誇りであり犯罪に手を染めし事実の是認と言うもの、逆に、現行犯(殺人乃至殺人教唆)で捕縛されなければならない人物にこそ、ドゥテルテ大統領は措かれて居るのである。

 フィリピン国民も去る事ながら、国際社会もまた勘違いしてはならずでは在るのだろう。