日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆列島内に居座る貧乏神も愈々退散か

 己にとって、其れは与えられし権威の輝きに因る結果の到来で在り、地位が表し示す権力の結果的成果でしか無いのだろうが、民間の文化経済圏にまで降り立っては試みる、権力の衣を借りた侭に為す自らの見えざる意図の明示は、少なからず、国権の濫用を下にして為す、公共財の取り崩しや私物化等に直結するもので、よしんば、其れこそが、権力が抱える排他性を以って動く事象一つ考えずに国家権力者(的)として其の侭に動けば、必ずや、当該民間領域に於ける慣習法たる鋭利にする条理は忽ちにして蓋をされ、咄嗟の条件反射として、権力者群の胸の内に収まっているであろう、所謂、不条理なる慮りを以って為す意思の尊重にこそ決断の舵を切り、ご随意の侭になる便法を探し当てて対処、配慮乃至斟酌等に繋がっても来る事にこそ十分なる注意を払うべきが権力者としての弁えの一つなのでは在るが、其れを幸いとして全く気付かぬ風を装うばかりか、執拗に食い下がっては、殿!ご乱心が過ぎまするぞ!の、野党からのご乱行の制しと疑義の呈しには、我が行動に疚しい動きなど何一つとして無いと憤って見せたばかりか、あまつさえ、私(と妻)の為す事に、斯かる事案に対する関わりが若し在ったとすれば、職(総理大臣)を辞するのは当然で、勿論、(国会)議員も辞しますよ、と言って見せた宰相たる安倍晋三先生、紛う事無く、表層的連関性に置かれてもいれば、非連関の侭に物事が成就したとは全く言えずのもので、宛先無し、記載日無し、記載者名無しのメモとは言え、当該事案に対する、関係者しか知り得ぬ、有事を記す各種裏付け証拠(メモ等)もまた事実として出ていれば、間接的にでは在っても、国権と私権の垣根を、安倍晋三と言う国家権力を差配表象せし者が、取り払ったとの推定は基より可能、本人(自民党)をして唯一の国家的人物であると、見誤って選んで終った信奉者たる山口県民の為にも、此処は潔く其の公職を辞するべきではあるのだろう。

 後任人事のことなど、傀儡子宰相たる己が心配する必要はまったく無し、自民党が現に占有する両院の議員数から推し計れば、ポスト安倍もまた自民党総理で已む無きものとはなるのだろうし、碌でも無い政治屋ばかりで、自民党自体の条理在る軌道修正など到底不可能なる現状には在るが、其の様な中でも唯一にして曇らずに光って見える(政治条理が堅固な人物として映る)のが、惜しむらくは参議院議員では在るが、元大臣の「林芳正」一人が存するのみ、安倍晋三に引導を渡して下野させ日本国を条理に導く自民党最後の人物としては適任では在るのだろう。勿論、彼もまた山口県出自で在ってみれば心底不愉快ではあるが、「天皇家」をして、日本民族の長たる事を御尊敬申し上げると言う「心核」が紛う事無く彼にも存すれば、国家社会を実体的に動かすのは国家公務員と学識者群、並びに、メディア群を介した国民であれば、挙手起立要員たる自民党の有象無象が居様とも其れだけで十分なるもの、賢明にする彼の事、窮地に陥ろうとする日本国家社会の現状に適切なる方策や手法を加えて軌道修正が為し得るのは、小澤一郎率いる「自由党(員)」、並びに、志位和夫率いる「日本共産党(員)」を除く他には、当該自民党員である彼「林芳正」位しか、政治的リーダーたるに相応しい人物は、残念乍ら今の自民党(員)には見当たらず、且つ、遺されてもいないのである。

 勿論、今から8年前の2009年9月には、拙速にして稚拙にする、価値無き格好付けの政治のみに終始した観も在る、自民党麻生太郎政権をして、キッチリと、一年で解散総選挙へと追い込み、追い込み序に、大惨敗の下野へと自民党を追い遣った鳩山由紀夫小沢一郎両名主道の民主党。今にして思えば、日本国家社会をして清廉潔白にする慎み深い、所謂、「天皇家」を長とする、理性的条理在る国家へと転進させる絶好の機会でも在った筈だが、国権こそ自民党から奪い取りもしたが、上記主導者を除く他の、菅直人岡田克也を一とする、三百有余の民主党衆院議員に、大人しい人物群は揃っていても、政治は闘争で在り戦争、其れに勝った者のみが、”理性在る条理”の地位に在る事を唯一語れるのである、との本質を学ぶ事無く、唯一、栄誉や名誉の満足に向けて動き、挙句の果てには、”身”を護る条理構築の大事を忘れ、在ろうことか、党の唱道者で在り主導者である二名をして党外へと追い遣り、須らくの国権を得たものと錯覚、世が世であれば、行政府のリーダーたる椅子には就く事も無い菅直人何ぞがしゃしゃり出て、宰相の座に就いたものだから、海底の神、海水の神もまた怒ったのでは在る。

 斯くの如く、衆院選を制して国権を奪い取り乍ら、僅か三年で党内組織体制迄が崩落を見、国民に対し国権の返還を余儀なくされた民主党(現民進党)では在ったが、未だに体制崩壊の本質に迫る反省の取り纏めも、政治戦争敗退に拘る批判総括もまた未だに見ていなければ、第二次世界大戦敗戦後に於ける国家権力者群に因る我関知せずと同様に措く無責任性は免れずのもの、次への動きも全く見い出せずは当然、民主党から民進党へと頭領を変えただけ、政党名を変えただけで、”あの夢をもう一度わが胸許へ!”なる願望は、国家国民には最早通じずのもの、主導者一人護れなかった集団(現民進党)が、国民須らくをして護る事が出来る等と、考える国民を捜すこと自体が難しいのである。

 現状に於いては、蓮舫党首と山尾志桜里議員等の複数議員のみが、不条理政治を露わにする自民党に対して、敵対心、並びに、闘争心をして前面に押し出す傍観者たる民進党でしか無く、政治的弱体化は避けて通れずの老体化せし政党、基より、政治的闘争心を失い、老体化した議員が集まった事で、国家社会をこそ其の殆んどの議員に於いては貶める事こそ無いが、覇気なく、基より、政治闘争を前にしてすら、絆創膏すらはる事を厭う挙手起立要員と指示待ち議員が、雁首を並べ立てては虚ろな目をし、唯々犇めくだけの民進党ですら在れば、独り、山尾志桜里議員と蓮舫議員が、少数政党の悲哀を託つ中で汗水垂らし、斯かる無気力に見える党員間を駆け巡っては叱咤激励、「条理に動けっ!、役立たずの男ども!」の檄を飛ばし、不条理なる安倍政治に対峙せよと、言っているだけにも見えれば、多くの有権者たる道々の民にとって、民進党の男等の存在(価値)に疑問符を呈するのもまた栓無き事、特に、我が故郷である福島県に在ってこそ何名かの野党(民進党)議員をして、戦闘の場たる国会へと野党議員を送り込んではいる様だが、安倍政権の明々白々にする、犯罪性が芬々として臭う権力濫用事案に関してすら、彼等野党議員が等しく詰っては憤り、血を流して動いている風には見えず、其れどころか、「三無主義/見ず、聞かず、言わず」を貫き通しては決め込み、他人事として押し黙ってもいる様にさえ見えれば、何をか言わん哉、此れでよく野党民進党としての国会議員が務まるものであるわいと感心し切り、彼等に無け無しの一票を入れた福島県民ともども、開いた口が塞がらずは毎度々々の出来事、再びにして己を責め立てる事とも相成るのである。玄葉光一郎よ、野党の政党人として条理に生きているのかな、生きているのであれば、会津人らしく、不条理に対する”戦い”を厭う勿れ、見て見ぬ振りをする不条理の受け容れは、会津男児のみならず、日本男児の恥としても知るべしである。未だ五十代の前半、指導者には向かずとも、傀儡政権を斃すと言う社会貢献ぐらいは未だ可能である。

 此の25日にはTVで、翌26日には新聞等のメディア媒体で、現宰相の安倍晋三が裏の主役として躍り出た、所謂、不正不法行為に関わる(補強材料の)確証を、自身の名誉と正義心を賭して公に公開、一億総市民に対して公表した、文科省の前事務次官前川喜平発言、安倍晋三を頂点とする閣僚陣に比べれば、実に、正義心が強くまともな(指導的人物と言うもの)で、勇気ある行動を厭わぬ人物、此れこそが、当欄に在っては常日頃より、政治家に対して求めている条理で、「社会正義の顕現」をして如何なく現し得る人物と言うもの、差し詰め、稀代の政治家たる小沢一郎を以って、途絶えて久しい観すら在る、其れこそが前文科省事務次官前川喜平に拠る、横暴を極める現政権の国家権力濫用の実態と其の暴きと言うもの、向かうところ敵無し状態の傀儡子宰相安倍晋三に対する、実に爽快にする不条理事象証明としての指摘であり発言、よしんば、公権力の前に押し潰され、前事務次官たる前川喜平の、正論に基づく主張が認められず、且つ、現国家権力には受け容れられずとも、「天皇家」と、赤子たる道々の民の絶対数は、彼の発言をして真のものと認め、其の主張を以って正論と理解、後押しするものである。

 臆する事も、懸念する必要も更々に無く、「天皇家」と、背後に控える赤子たる一億二千万人道々の民を信じ、粛々として条理在る道を進めば問題は無し、貧乏神をして後背に抱えし傀儡子宰相は、程無く、国家権力の椅子から転げ落ちる命運には措かれて居様と言うもの、疫病神を後背に抱えてはアメリカ合衆国W.Hへと乗り込んだ、件の、D.トランプ大統領より早く、権力の座から滑り落ちる命運に宰相安倍晋三は措かれるのであろう。天網恢々疎にして漏らさずなる格言は、日本民族社会に在ってもまた死滅してはおらず、一条理として生きてはいるのである。