日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆古希目掛けて為された同期会/一私信

 半世紀以上前の15歳

 コンクリート護岸壁で両側を囲われた石神井川を左に見、背にした後ろでは、体育館越しに石神井川を跨ぐ様にして走る東武東上線が当時も在ったのだが、今から五十数年以上も前の卒業式終了時には斯かる校庭の隅にボヤッとして佇みながら、校庭を前方にしては何処ともなく眺め続けていた自分を想い起こすもの、その後の同級同期生は其々に進学、或いは、就職へと飛び立って行ったのだが、場所と時間こそ違えども、五十数年後の今に、学校とは左程に遠くも無い、石神井川を目の前にして自分が在る事など、或いはまた、数こそ卒業生総数の一割程度の出席者数でしか無かったものの、同級生や同期生70名弱を集めて再会出来るとは、当時をして振り返って見れば、想像は勿論のこと考えさえしなかった事、基より、其れが叶った五十数年後の今日と言う事にはなるのだろうが、年齢相応に、身体のあちこちにガタを来たし、目も薄っすらと曇って来ている中での四時間余りの再会、何とも言えずだが実に楽しくも在った一日、クラス担当の先生こそ他界されて再会は適わなかったが、一クラス65名前後を以って13クラスが存在した、其の中での我等10組は、無事に巣立った在りし日の65名の中から、男子7名(加藤氏、河野氏、駒形氏、斉藤氏、佐藤氏、友部氏、渡辺氏)が集って呉れ、女子三名(小薗井さん、宝田さん、渡辺さん)が”出席”され、健康にして優美にする、古希こそ迎えはしたが、現役としての活躍振りを、此の目の前で見せ付けて呉れた中学校の同級同期会、どうも有り難うと、心の中では念じざるを得なかったのである。

 2017年を以って古希を迎え、日本人として生まれた其の須らくが存命に在れば、その数二百八十万人にも及ぶと言われる我等、落ち着きを取り戻し始めた終戦後の社会で、植え付けられ、生まれし我等道々の民、一世代前に産声を上げた堺屋太一(82)の命名に拠り、十把一絡げに”団塊世代マンガンノジュール)”として命名、揶揄したのか、思い付きの侭に称したのかは知る由こそ無いが、次から次へと泣き声を高らかに上げては生まれし、昭和22年生れ(昭和23年4月1日生も含む)の現「古希」人、第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争とも言う)入りを目の前にして堺屋太一は生まれ、国家が敗戦に帰した戦争終結時には、今に云う小学校4年の十歳と言う、育ち盛りに在り乍ら、腹を空かしっ放しの一時代を過ごした彼等にとってみれば、貧乏に在り乍らよくぞ此処まで、其れも、ポコポコと生まれて来るものだわいと、我等昭和22年生れをして、煩わしい存在であると思っていたが故に、斯かる名コピーたる「団塊世代」なる言葉を、考え倦ねる事なく吐き出して呉れたのであろう。勿論、事実は事実である以上、反論するには及ばずのもの、有り難く受け留めるしか術は無いのである。

 単独に為す同級生との交流を除き、其の殆んどは半世紀以上にも及ぶ五十五年振りの再会には措いたもの、咄嗟に判らず(記憶が蘇らず)は当然のもので、周囲の目が気になり、泣き崩れる事こそ憚られて試す事も無かったが、ジーンと胸を打つ場面が皆無とは言えずのもので在った事も事実、瞬く間に過ぎた半世紀越しの再会では在ったろう。次に逢える日が、須らくの同級同期生にやって来るとすれば、77歳時の<喜寿>か、若しくは、80歳時の<傘寿>辺りとはなるのであろうが、其の時もまた、上記旧友達の尊顔を拝しに出掛けたいもの、孫達の成長を見守り続けながら精進しなければならないのであろう。男女ともに平均寿命が八十歳を超えている今、八十歳での再会果たしは可能となるもの、実に楽しみな十年後では在るのだろう。

 元三年十組の女性陣三名(小薗井さん、宝田さん、渡辺さん)は、ともに白髪にせよ、夫々が房々とした髪をたくわえ、肌も艶やかで、当時の面影を残して居られ、また、中でも、当時ははにかみやさんの少女のイメージしか無かった小薗井さんも、また、宝田さんや渡辺さんともどもに意気軒高で、言葉も歯切れ良く、且つ、明瞭に聞こえしもの、一方、男性陣七名(加藤氏、河野氏、駒形氏、斉藤氏、佐藤氏、友部氏、渡辺氏)の内、後の三氏を除く、前から五氏の、我が記憶に残る頭頂部は、恐らくは、高校入学以来相当に勉学に励み、社会に出れば出たで相応に頭を使い、夫々に携わる社会を牽引し、城を築き上げ今に至ったのであろう、黒髪や白髪が数える程に残るだけ、実に男らしく、且つ、齢相応に変化したものであるわいと、旧友の尊顔を拝しては、気付いた瞬間にこそ思ったものである。額部分の更なる後退をこそ見、つむじの在る近辺も薄さこそ感じ取れるが、我が頭髪は白髪で覆い尽くされているだけ、何等の変哲も無い一老人と相成っただけである。

 ”一老人”で思い出したが、古希を迎えたとは言え、基礎的経済が日本列島に裾野を広げ、成長著しく成り始める時代背景と共に成長期に入った我等団塊の世代、経済成長の感覚こそ勉強不足で持ち得なかったが、同じ様に、その場に立ち会っては、学徒乍ら、忙しの無い社会を共に駆け続けては来たもので、大学入学や企業就職へと進んで行ったのもまた我等の世代、男も当然にファッションにも気遣い、VANやJUNにも魅せられては、貯めた小遣いで、上記ロゴマークの入った衣類等を買い求めては悦に入り、高校入学時代に一世を風靡しブームとなったビートルズにも熱狂、プレスリー美空ひばり、或いは春日八郎と言う、同等の質に措いては聴き入り、ともに魅了されると言う、我が子や孫達にとっては、一生涯成し得ぬであろう、和洋混じり合いしファッションや音楽文化に関してでは在るが、羨ましがられる青春時代を、此の団塊世代のジジババ達は過ごす事が出来たと、喜んでもいるのである。

 その様な時代背景を共有し続けて来ている同級、同期生達が、28℃を超える日中に於いて、どの様な出で立ちで、「古希の会」に参加して来るのかと想像さえし、もしかしたら、長髪にした白髪を後ろで束ね、デニムのコットン白パンツに、白地に赤のストライプ入りのシャツを着込み、バスケットシューズと云う、当時の若者の出で立ち其の侭に、即ち、歌手「マイク真木」の様な格好をして参加するのも居るのでは無いかと想像もしたり、或いは、古希を迎えた者であれば、フォーマルな出で立ちでは在るが、背広にネクタイと云うスタンダードな格好か、若しかすれば、其れに麻生太郎先生が被る、スティンジー プリム フェドラ ハットを添えての格式高い出で立ちも在るのでは無いかと期待すらしていたが、暑さも手伝ってでは在るのだろう、男性陣の多くは、現代に見る「マイク真木」が見せて呉れてもいる様な、ラフな格好、即ち、様々な色添えをしたストライプ柄のコットンシャツに、コットンのジャケットを羽織って纏め上げると云う、若かりし時の我等に取ってはお洒落着とでも言うべき出で立ちが其の多くを占めてはいたもの、基より、バスケットシューズこそ見られなかったが、カジュアルな靴で足元を締めると云うトータル ファッション、古希70歳には突入しても「現代っ子」を現し示す和洋折衷文化は、今も尚、我が世代に見られもしたのである。白髪頭(若しくは毛髪見当たらず)と赤ら顔の(我等)爺チャン達、もっともっと長生きしなくては、、、。

 一方の女性陣はと言えば、予想だにしなかった事だが、全体で四、五人ほどはお出ましになってもいたのだろう和装姿。即ち、和服でのお出座しには、正直な所、少々驚きさえ覚えたもの、其れこそが瞬間的にでは在ったが、健在ではあった有りし日の、我がお袋やおや父等の、所謂、明治、大正世代が生計を握っていた当時の時代に舞い戻ると云う、錯覚と同時に郷愁感さえ彼女等は与えても呉れたからである。我が組にも宝田さんと云う、現役実業家が涼しげにする和服でご登場とは相成ったもの、基より、古希に至る現下の年齢を考慮に入れれば何等不思議では無い和風装束でのお出座しと光景では在るが、未だに出自の悪い小生等にとっては、半世紀をして瞬時に巻き戻して終うと云う、何とも不思議なる光景と舞い戻りの贈り物ではあったろう。此れもまた感激の対象光景にはなったのである。

 次に再開する日が、”若し”在るとすればだが、七十七歳を迎える「喜寿」か、十年後に到来する八十歳の「傘寿」辺りと云う事にもなるが、明治や大正世代の我が両親に比較すれば、栄養価の豊富な食糧を以って育つ事の出来た戦後っ子の我等、実態は八十歳になろうとも、実体は七十歳に見合うフィジカルの持主達、此の侭に行けば必ずや、欠け落ちる事無しに再開が叶う筈である。

 お目通りが叶った、もと十組の、加藤氏、河野氏、駒形氏、斉藤氏、佐藤氏、友部氏、渡辺氏の男性陣に、小薗井さん、宝田さん、渡辺さんの女性陣、何れも元気なご様子、間違いなく安心致しました。出来れば、皆様が遺された宝物である子や孫等の写真を拝見したかったが、次の機会にとっておきたい。そう在る為にも、皆様方の益々のご健康とご繁栄、並びに、ご長寿をこそ念じて已みません。何時の日にかの再会が必ずや叶うべく、小生もまた精進致しますので、皆様もお元気にお過ごしください。特に、大手術をしたばかりの斉藤君、元気な姿でまたお会いしたいものです。

 草 々