日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆確信犯のみを遺す改造内閣、先は如何に。

 世界戦争には至らずに済んでいる中で、国内紛争や国家間抗争こそ止まないものの、国際社会挙げて静謐裡に生活すべく模索してはいる二十一世紀の国際社会、とは言え、旧習抜け切らぬ部族制度をして、国家政治経済社会体制内部に隠然とした形で残し続ける現代に在って、即ち、中東アラブ諸国や、イスラム教を国教として信奉する国家群に在っては、今も尚、部族社会制度を基にするヒエラルキー組織社会体制が権力基盤をして構成、基より、国家権力をも掌握、陰に陽に、国家政治経済の運用に少なからずの影響力を行使すらしてもいるが、此れは飽く迄も、部族間宗教や宗派間対立を基にするヘゲモニー争いの結果たる紛争で在り抗争と見て良しとするもの、イスラム教の盛んな中東アラブ諸国や東南アジア諸国の一部、乃至は、キリスト教では在っても宗派の異なる、アイルランド共和国等の一部で限定的に見られる、其れこそが諍いでは在ると認識してもいたが、まさか、日本社会で、其れも、祖先が隷属下に追い遣られし過去の不都合なる史実が本で、此処まで厚顔無恥にして卑劣にする、不条理なる政治的対立活動を生み、且つ、平然として繰り広げ、反省の色微塵たりとも見せずの権力者が出て来る事を、単一民族に近い日本国家社会で目にし様とは、露たりとも思いも寄らなかった事 勿論、宰相安倍晋三の執り行う不条理行政活動を指して云うのだが、其の彼が現状に於いても悪びれる事無く為し続ける、一種独特にして且つ特異なる、政治活動と執権行為は延々と続き、都合六年間にも及ぶ間、国家権力を用いては、国民自身が全くにして気付かぬ被害を数多に作為し続け、今に至る迄成し得たのも、貧乏神と疫病神をともに背負っていたが故のもの、即ち、数々の被災をして国民の頭上に降り注ぎ続け、悲鳴並びに嘆息をして上げさせたのは、独り、現代社会形成にまで至る自国の成立史をして全く知らぬ、或いは、知る事を閉ざされた、其の様な憐れなる日本民族たる国民をして数多に拵えて来た、現下安倍晋三に連なる異邦人の<輩>が権力者群の中に相当数に及び、且つ、手を染めて居続けたが故のもの、われら無知蒙昧にして寛容なる道々の民へと貶め続け、且つ、誘導可能な、正直で在るが故に憐れを託ち易い存在の其の日本民族をして、僅か足りとも”憐れなる存在”とすら看做さずに措く異邦人宰相が、日本国に、其れも、国家権力者として座し続けるが故に惹き起こされる不条理の数々、斯かる類似的異邦人は、朝鮮半島の二国にも居なければ、形としての漢民族中国にも見られずのもので、其れこそがおぞましき人物か操る日本政体にのみ見られる傀儡子権力として存在するもの、基より、日本国は、<日本民族>と言う一種族から成る国民ではあると、未だに錯覚し続け、曲解し続けて不思議としない人々が相当数に上る事もまた、疑念を深堀せずに放置さえする一因にはなるもの、言うならば、国家転覆を企てては成功させた件の明治革命に在って、革命テロル活動の実行部隊を担った薩長土肥連合、就中、長州藩に因り一夜にして朝敵と看做され、其れが本で、似非御宸翰すら準備され、戊辰戦争を巧みに仕掛けられては討たれもした会津藩が、鶴ヶ城に於いて敗戦を喫し、150年を経た今日ですら、未だに、長州(藩、出自、権力者等)をして、受け容れ難き、狡猾なる不逞の族(菅直人の様に)であると看做して已まずの如く、また、千二百有余年前に於いて、会津藩以上にも増して酷い、”民族的殺戮劇”すら被った件の、東北王朝の雄たるアテルイを一とする蝦夷一族に対する、処刑を主とし、隷属化を従とする不条理を以って、現山口県以下の異国の地に民族大移動をさせられては同和化が図られ、且つ、並行して、倭人との戦いそのものもまた、八世紀後期から十四世紀に至るまで散発的ながらも続けられて来た、蝦夷一族を母体とする東北王朝史の史実すら遺ってもいれば、朝敵とされし奥羽越列藩同盟の一つで在る会津藩、並びに、其の後裔たる会津人が、未だに長州人に対して強く抱く怨念以上に、蝦夷一族の末裔(安東家、秋田家、安倍家)を内心に於いて是とし、主としてさえ敬愛する、傀儡子宰相安部晋三の如き、一部の日本国民にとってもまた、堪え難き苦痛であるとし、古に於ける屈辱的史実でも在るとして忘れ得ずに脳裡に収め、何時しか、支配者たる後世の日本民族に対する貶めの障碍も無くなり、また、民族的怨念の晴らしもまた邪魔立てされる事無く成し得るとの時期の到来をして判断すれば、日本国民の行政的最高位に座る首相にとって、日本民族貶めの為の躊躇材料は何一つとして無きもの、唯々思うが侭に、「天皇家」を含む日本民族をして、実体的隷属化に陥れ、第三次世界大戦を惹起させては、蝦夷一族が千二百年前に被った悲劇、所謂、民族的苦痛たる、”蝦夷一族の怨念”、其の晴らしを得る絶好の機会の到来と捉え、且つ、決行する機会は到来せりと判断、蝦夷一族の末裔たる<傀儡子宰相安部晋三>が延々として考え続けて来た、まさしく、其の結果が現状で在るにせよ、何等不思議な事では無いのである。

 現代社会に住まう日本国民で、且つ、日本民族と呼ばれる大凡75%の民(94,500万人)が知らないだけで、1%の126万人にも満たずに措く、当該異邦人を含む一部の日本国民のみが、薄々乍らも知り措くだけの事でしか無いのである。

 基より、肌色を同じくする者同士の集合体たる日本国民とは言え、純粋にして無垢なる一民族から成り立つ日本国家では無いのもまた事実、二十一世紀に突入した今現在に於いて、九世紀に於ける古代東北王朝の解体に思いを馳せ、即ち、蝦夷一族の民族浄化にも繋がった在りし日の、宿敵たる倭人日本民族)に対する、言わば、現代日本国民の殆んどが知識外に措くで在ろう、言わば、蝦夷一族の雄たる安倍家に因る”怨念の晴らし”に遭わせられ様とは、露ぞ、考えすら及びも寄らなかった事、まさに其れは、十世紀中庸に在って、あのスラヴ系ロシア民族に因って蹴散らされては国を追われ、欧州域や中東域へと追い遣られもした件の、現ウクライナ国を中心にして国を治めていたカザール(ハザールとも)王国の民(アシュケナジーユダヤ民族の祖)が、一千年を経た今日に於いて、現行ロシア連邦に対して、積年の怨念を晴らし、同時に、スラヴ系民族の浄化と、追われし故郷を取り戻すと言う、言わば、十世紀近く、若しくは、其れ以上にも亘って祈願し活動する件の、シオニストユダヤ系大財閥資本家群に因る、地下深くに潜っては民族目標として展開する、スラブ系ロシア民族平定計画活動をして想起させるもの、まさしく、蝦夷一族、乃至、カザール民族に降り掛かった在りし日の、悲哀を託つ時代背景と言い、怨念晴らしの飽く無き構成や手法と云い、安倍一族も、ロートシールト家(英名:ロスチャイルド)一族もともに、日本民族に対して、或いはまた、スラヴ系民族に対して抱く、後戻り無き怨念の晴らしと言う、言わば、民族的宿願で在り悲願ですら在る共通性をこそ有するもの、知らぬは当該二つの部族が主導しては織り成す国家国民が、無残にも在るばかり、極めて陰惨にして悲惨なる事態の到来が待ち受けるだけ、個別的にか同調的に飛来するのかは不明だが、現状の侭に推移すれば、必ずや、不条理の到来だけは確定的にも秘めてはいると言う事である。勿論、両陣営ともにと言う事にはなる。

 去る8月3日、第三次?安倍政権は、公私に亘る数々のスキャンダルを抱え乍ら、国家権力の手放しをする事無く、スキャンダル押し潰しに進む事を決断、事前に発表した通りに、新たなる国会が始まる前に、”天皇家”に出向いては直々に為すべき、内閣改造に至る経緯の奏上をこそ避けた様だが、内閣府閣僚人事を一新すると公に発表しては改造を断行、且つ、閣僚人事名簿を公表し、「天皇家」の御認証を賜る事にはなるのだが、何もかもを好き勝手に進める安倍晋三に因る、内閣改造に至る其の須らくは、自らが現に有する国家(行政)権力をして維持し、継続的に保持せんが為の目的には在るもの、基より、数々のスキャンダル(森友学園国有地廉売事件、加計学園不正誘致問題、強姦犯解放問題、政治資金規正法抵触問題等々)をして一挙に解決に付す様な、正義心の強い人選に因る布陣の布きでは無く、一言で言えば、過去の安倍政権には見られない、埃少なき人材をも登用し配する事で、自らの狭量的性格が為さしめるスキャンダラスな特異性を、乃至、政治的傀儡性をして、国民の目から覆い隠し、出来れば一挙に踏み潰さんが為のもの、此れほど明々白々にして為す不条理行為を露見させながら、自民党にとってみれば無け無しとでも言うべき人材を、延命工作の為に使かって終おうとは、安倍晋三も中々にして遣るもので在るわいと思いもするが、換言すれば、何れも自己保身のための<捨て駒>なる存在にも在れば、少なくとも、政治的能力(政策立案力、政策執行能力、結果解析能力等々)に優れた彼等の登用が、何時迄も、内閣府を一とする行政機構高級官僚等に求められていた、所謂、茶坊主然として為す権力者に対して為す立ち居振る舞い、勿論、其の模倣の要請や、盲目的隷従など、須らくが受け容れられる由すら無ければ、早い段階から離反者すら出て来るのは然るべきもの、解散総選挙を選択せず内閣改造を実施した安倍政権、”鬼が出るか蛇が出るか”は未だ不明だが、貧乏神と疫病神の両神をして後背に抱える傀儡子宰相の事、不条理神がそそくさと立ち去り、代わりに、和平神や静謐神が日本列島に現れいずる事は残念乍ら無い。

 実態的には兎も角として、在る時期迄は、実体の伴わない名誉職にも在った大臣の椅子、或いは、大臣職を輔弼し補完する、補佐官や政務官等々の椅子から引き剥がされた自民党員の何十名かは、宰相自身が捲き起こした件の、政治的スキャンダルをして揉み消すどころか、沈静化する事さえ出来ず、逆に、或る大臣は、疑念追及者に対して高飛車に出る事で、逆に、疑惑をして更に強める不信感を託ってみたり、或る大臣は、証拠の存在など知らぬ存ぜぬを繰り返した挙句の果てに、具体的証拠が出れば出たで、其の様な「紙や文言」は宛てにならず、証拠にさえならないと迄言い切り、まさに、見聞している国民自体が”検察官”等では無く、無力、且つ、無知蒙昧にする存在にも在ることを、自民党出身の大臣や政府高官たちは悪びれる事無く看做しては表現、露呈して終ったりの、言いたい放題やりたい放題は、今に至る迄も続いてはいるのである。

 力無き者が、不始末を遣らかせばトッ捕まってはブタ箱にぶち込まれ、力ある者が、国有財産を無断で散在させ、悪巧みに加担してさえトッ捕まらない社会図式は、先進国社会と言うには程遠いおぞましくも在る政治社会態様、まさに、現行日本国家社会は、司法権の行使に基づく組織<官憲>制度をこそ有するのだが、基より、須らくの司法機関が理性在る条理には働かずと迄は断言こそしないが、条理には決して働かずの指揮系統下に措かれた組織が在るのもまた事実(強姦犯の逮捕が解除されたり無罪放免に処されたり等)であれば当然に、「法治主義国家社会体制」を任ずる事自体が不穏当にするもの、社会秩序全く育たずの国家社会と何一つ、不条理の撒き散らしに於いて変わらなければ、何れ、人間家畜牧場へと追い込まれるのも道理、基より、望ましかろう筈は無いが、安倍晋三の為す現状為政を是として見続けると言う事は、まさに、<官憲>の存在など無用として是とさえする所、<謝って済めば警察など要らない!>の言葉にも繋がるのである。