日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆「蘇我入鹿神」は、今、天から何を思われるのであろう。

 今から1354年前の663年、<唐、新羅連合軍>対<倭、百済遺民連合軍>の戦が朝鮮半島で勃発、所謂、朝鮮半島南西部に位置する白村江での大掛かりなる戦いが在り、百済遺民軍が国家再興を賭けて最後の力を振り絞り、応援部隊として頼みにしていた原初日本国たる倭国軍の到来を待つ事にはなるのだが、上述せし様に、倭軍が白村江に入りし所で、主に、唐、新羅連合軍の主力部隊を構成する唐軍の待ち伏せに因る奇襲攻撃に遭い、其れも倭軍の倍以上の軍備(船や兵士)を用意されては、陣形を整えられずの侭に倭軍は崩され、大量の火矢を以って射られる等で散々なる憂き目に遭い、完膚無き迄に打ちのめされた<倭と百済遺民連合軍>、基より、多数の戦死者を出し手負いもしては、這うほうの体で一部は逃げ遂せたものの、死なずに生き延び、北九州に戻った彼等はと言えば、九州王朝(日本国名発祥の地)等の支配領域へと遁走し逃げ戻り、其れこそ歴史は、大和朝廷の原形へと繋がっては行く日本の歴史ともなるのだが、斯くして、九州王朝のみが為した、所謂、白村江の戦いで大惨敗を喫した事に因り、七世紀後期には、日本国としての国名を九州王朝から其の侭に拝借、倭国たる九州王朝から、済し崩し的に国家権力をしてゴッソリと受け継ぐ事と相成るのが、天智天皇から天武天武天皇へと代わる御代、所謂、天皇家の内紛たる<壬申の乱>を以って権力が継承される事と相成るもの、国家を統べる大和王朝(朝廷)へと繋がるもので、勿論、国際儀礼上もだが、日本国名を正式に冠し、九州王朝から大和王朝へと政権移管を見たのも、天武天皇をして成立する七世紀後半と想定されるからではある。基より、九州王朝は十世紀初めまで存在していたとも言われている。

 勿論、白村江の戦いで、倭国をして完膚無き迄の敗退に帰せしめ、朝鮮半島から追い遣った<唐、新羅>連合軍は、勝利に乗じて其の侭に、基より、間髪を入れずに九州王朝へと追尾、よしんば攻め入ってもいれば、今の世の中も少しは変化を見ていたのかも知れない日本とはなるが、対倭軍追討劇は殆んど無しに終わり、現に手にする日本史の表記する内容をこそ、現代人は見る事と相成るもの、基より、日本史の全てがすべて、事実をして網羅し得ているものでもなく、また、掲載し得ているものでも無い以上、歴史的諸事象の一つ一つが真実かどうかの判定や判断は、特に、斯かる古代史に関わる略史実として断定されたり解析される真実は、一文献を以って為す丸事の、鵜呑みにする理解や納得だけは避けたい所、基より、歴史事象こそ動かしがたい史実として共通もすれば別だが、斯かる歴史事象をして惹起させた様々なる解析に、唯一の正解など見られる由すら無いのかも知れず、多くの文献をして探求調査する中で、史家や読者が(現状と繋がるべく)判断すべきものでは在るのだろう。

 即ち、二、三世紀頃の古代に於ける、南北に跨る日本列島をして支配せし者達、所謂、集団や組織を編んでは生産活動を為し、其の維持や勢力拡張活動を共にし始めたのは、其れこそが何十万年前のものでは無く、精々が一万数千年そこそこ前に遡れるだけのもの、況してや、日本列島の様に、大陸から分離、観音開きの扉が開いたかの様に剥がれては、海底隆起せし底部と合流、略南北の真ん中辺りで海上に浮上、現在に見られる、北は北海道から南は沖縄に至る迄の”昇り龍”の様にも見える、山並みの島々が90%以上を延々と占める海抜となった日本列島、もちろん、朝鮮半島を主とする地域より、数万年前より遅々として始まる日本列島各地への集団移住が進む事とは相成るのだが、当然の事として、計画的移住など有り得る由すら無い当時の時代背景にもあればのもの、現島根県たる出雲域を一とし、或いは、現福岡県等の北九州域等へと、朝鮮半島等から、何千年にも亘って渡りし人々が大規模なる組織社会を構成、或いはまた、現青森県秋田県へと渡っては住み着くと云う、日本社会の原形が、略、六、七千年前には既に出来上がっても居た事を、遺跡調査結果等は教えている所、現北朝鮮領域や現ロシア連邦領域内に在る極東領域に住まいし人々(テュルク民族やアイヌ民族ツングース民族やエスキモー民族等々)が、列島北部へと渡り、中規模から大規模集団にまで至る、所謂、言語の異なる組織社会を造り上げたのもまた想定される所、即ち、北海道や東北北部等に先住せし民たるアイヌ民族や、輝かしくも在る名称をこそ今も尚遺す、蝦夷民族もまた例に漏れずのものではあるのだ。

 新たに島入りする渡来人との抗争やら隣接域に位置する部族との抗争を除けば、屹立する山々が延々と続き、東西をして隔てる南北に伸びる日本列島、当該日本列島をして縦断すべくに位置する山並みを背景に考えれば、船舶等の海上交通が大型化する迄の間は、今でこそ狭い日本列島に在るとは云え、国内交流とは謂えども、中々にして頻繁には交流し合う事も少なかったであろう事は推し量れ様と言うもので、左すれば、言葉もまた同様にして独立もし、生活を一とする民族文化形態も一種独特にも在れば、物々交換(貿易形態の一つ)こそ見られても、常態とする相互交流に至る迄は相当の時間もまた掛かった可能性すら見て取れ、日本列島内に於ける各集団の力関係が、唯一、牽引力を強めて行くのは必然のもの、言葉もまた、力在る集団の話す言語へと引き摺られ、文化もまた力在るものに引き摺られて行く事とは相成るのだが、須らくが遺棄されたり廃れたりするとは限らずのもの、消えて無くなる可能性は否定し得ずのものだが、宗教や民族的慣習の様に、唯心的に遺る事と相成る民族文化もまた少なくは無く在るのだろう。

 斯様な成立過程を取って見せる日本列島、今では一億二千六百万人を擁する日本国家社会として賑やかに活動し、また、行方知れずに措かれる中で、一喜一憂すら強いられ続けてもいる社会でもあるが、中央、地方併せての行政権力組織の中で、此れ程迄に醜くて酷い、基より、上の権力者から下の権力者に至る迄、全うにする法理念をしてさえ無視するだけに止まらず、法そのものを蹂躙する権力者群に国中が塗れるとは、あの蘇我入鹿神ですら予想だに出来ずの事では在ったろう。