日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆日本国民に拠る政治と原状回復の重要性

 37万Km2の日本列島に、何れは自由そのものを剥奪され、傀儡権力者群の尊崇する<主>の足許に傅き、且つ、働き、用済みとなれば立ち処にして葬り去られる事となる、家畜人間奴隷たる、八百万人にまで其の数をして減らされた二千??年代の日本民族、斯かる家畜人間の牧童役を誰が担うかは未だ定かでこそ無いが、恐らくは、<主>たるシオニストユダヤ系大財閥資本家群の政治的前衛で在り、且つ、日本民族とは明らかに肌色も異なるブレイン群達か、若しくは、日本民族と肌色をして同じくし乍ら、<主>の足許に跪いては忠誠を誓う、覚え目出度きエージェント群が其の任に当たるのであろう、即ち、一億日本民族をして家畜人間奴隷牧場(社会)へと追い遣るべく、名も無く貧しく美しくも無い一億道々の民に対し、無駄無価値なる生き物であると断罪、膨張し放題にふくらんだ日本民族の浄化抹殺を急ぐべく、ありとあらゆる知恵を駆使、法を布設して迄為すエントラップメントの仕掛けは、日本民族から成る国家指導者たるまともなる為政者には、共同正犯の任に当たる事は出来ても、主犯たる地位には就けずに措かれるものだが、即ち、罪無き無辜の日本民族を貶めて良しとする発想そのものが日本民族自身には浮かばすのもので、よしんば刹那的に浮かんだにせよ、まともなる健常人で在れば即座に棄却せし発想そのもので在り、現下に見られる様な、所謂、向かうところ敵無し状態に措かれた異邦人国家権力者独りに因る、七年間と言う長期間に亘っては玉座に担がれ続け、而も、次から次へと、不条理なる<法>を配しては健常人たる日本民族をして包囲すべくに公布される、所謂、家畜人間奴隷化社会への追い込み法案は延々と布設、実践下に措かれるもの、即ち、日本民族に対する隷属下に措く<冊封体制>での囲い込みは、愈々を以って完成、異邦人傀儡子宰相と其の一群の汚れし手に因って、不条理なる域内に囲い込まれ様とさえしているのである。

 日常生活にさえ汲々とし始めた過半の日本国民にとって、今や忘れ去られて久しく、且つ、死語となった観さえ在る言葉、即ち、”被占領国日本”と言う、七十三年前から始まる史的事実をして、其れでも尚、決して忘れる事無く、而も、日本民族の心を捉えて離さず、老齢化せし脳裡からさえ決して消し去る事の出来ない言葉として記憶され、特に、部分的日本民族の中にも在った筈なのだが、敗戦後十年、二十年、三十年と、止まる事無く時も過ぎ去り、世代もまた夫々に更新されていく中で、歴史の生き証人たる彼等先達も其の記憶を後世へと伝え乍ら、櫛の歯を欠く様に一人また一人と、誰しもが何時の日にかは通るであろう黄泉の国へと旅立ち、条理の口を閉じる状態へと社会変化を見て行けば、新たに齢を重ねる真っさら頭の日本民族にとっては、中々にして、アイデンティティーを以って為す、斯かる民族自覚たる記憶や知識とは合致せぬ、其れこそが、他所事の言葉であり、他所事の意義とされて終うのも道理、基より、戦後直ぐに産み落とされし我等団塊の世代を含め、戦争未体験の若者達で大勢を占めるであろう現下の与党自民党員達、勿論、野党陣営もまた然りで、少なからずに同様の環境下に措かれているのも事実、特に、議会の大勢を占める与党陣営の議員達には強く言えるだけのもの、即ち、国家が歩んだ歴史をしてつぶさに知るよりは、寧ろ、現下の株式市況や為替市場の動向に目が向き、基より、政治行政課題を吟味し研究する所か、諸欲にのみ目が眩み、而も、我が儘で、且つ、利己主義的政治に身を置く欲ボケ人間に変身、本業たる立法府の業に在っては唯々言われるが侭の挙手起立要員に成り下がっては平然とする彼等与党議員達、日本国民の中にも、彼等と同様に今さえ良ければとの、其れこそが疎んじられ、且つ、軽蔑されて然るべき利己主義刹那的人物群が、何と増えて終った事では在るのだろう。斯かる一例を以ってしても、今や、”被占領国日本”なる言葉は、忘れ去られて終っただけでは無く、死語にすらなり掛けていると言っても過言では無いのである。歴史を忘れし者は、何れ、巡り来る歴史に因って泣かされるのである。

 我が日本国社会で此れほど明らかに不条理為政が演じられ、而も、異邦人傀儡子為政者(群)に因って権力執行が施され乍ら、更に、日本民族社会をして甚振られ続けながら、与党議員の誰一人として気付く風も無く、基より、異論は差し挟まず、挟むどころか共鳴すらし、唯々諾々として異邦人傀儡子宰相の指図するが侭に動き、為すが侭に従うだけの与党代議士たち、此処まで来ると、与党代議士である彼等をして、蔑み腐して怒るより、寧ろ、憐れみすら覚え、同祖同血で在る筈の彼等日本国民に対して違和感すら抱き、笑っても終うのである。此れが、同祖同血に措く筈の、言わば、曲がった事が大嫌いで正義心旺盛、且つ、思い遣り深く、己を犠牲にしてでも弱き者をして助けなければならないと言う、真に彼等も日本民族で在るのかと疑問視して終うだけ、基より、権力争いの真っ只中から、趣味としていた競技用自転車事故が本で、玉座の狙いを諦めざるを得なかった件の人物、即ち、<谷垣禎一>氏が、事故も無く、今頃は宰相の玉座に就き、国家国民の為、乃至は、国際社会の為の政治が成し得ていたかどうかは別としても、現に引き続く異邦人傀儡子内閣の赦されざる振る舞い、即ち、遣りたい放題に撒き散らす、現下の不条理法制の整備や、いい加減なる発言等をして単独でも動き、両手を広げては侵攻を阻み、社会正義の顕現を期して戦って見せると言う、言わば、正義心強き自民党政治家誰一人として出でず、基より、居らずはまさに、戦後七十数年に亘る歳月が為さしめし”被占領国日本”の現れと言うもの、基より、ひもじい社会生活に措かれた日本で、明日明後日を生き抜くべく、故吉田茂翁に因って、新日本国の進むべき青図(敗戦国からの出口戦略)は描かれたが、故岸信介と故佐藤栄作の手に因って、そっと、書き加えられし青図は、非日本民族を核とした”計略図”に修正を見、今、彼等の孫たる、異邦人傀儡子宰相たる内閣総理大臣の手で、歴史ある日本民族国家全体が、アメリカ合衆国をして実質的に支配、且つ、差配する、件の、シオニストユダヤ系大財閥資本家群に、”一億人間家畜奴隷”として提供され様としているのである。

 其の退任時期こそ不明ではあるが、国家権力を掌握する政党首班指名での交代劇は、微かではあるが足音を立てて迫り来る中で、唯々、現傀儡子宰相の退任に至る決意表明をじっとして待ち、我が身に対する玉座禅譲を俟つ前外務大臣岸田文雄辺りでは、安倍晋三が現に為す暗愚なる傀儡子為政の二番煎じをして託つだけに終わるもの、況してや、政治家に在り乍ら、政治的線が極めて細く、利己主義に陥った自党の無頼漢どもをして一本に纏め上げて操縦出来るリーダーには見えずの人物、基より、首を傾げざるを得ぬ人物で、況してや、政治力も資金力も足りず、日本国民をして安心下に措かず、民族条理に照らして唱道する、其の核となる理念に符合する言葉や説得力が、未だ一つとして見えずに在れば、国を引っ張る指導者としての力量に対する、制止不能なる疑問符の噴出は勿論の事、不安材料のみが矢鱈と目に付くだけの人物、本人が考えている以上に、傀儡政権の座の獲得は難しいものとはなるのだろう。基より、宰相の座に一番近いとされ乍ら、安倍/麻生一派に騙されては翻弄され続け、与党指導者への道を阻止され続けている、此れまた賢策顕し切れずの人物、即ち、国民の目をして惹き付ける事も多くは無い、件の、理論好き政治家で、党三役や大臣経験者でも在る石破茂はと言えば、岸田文雄に負けず劣らずの「他力本願」の為政者には見えるもの、其の何処にも、冷徹にする現状日本社会の分析も評価も、はたまた、どう為すべきかもまた一般国民には表明せず所か、遣るべき時には論争すら遣って見せると言う気骨すら感じさせない様は、基より、最後は、国会議員の大半を占める自党の挙手起立要員や、傀儡子為政者をして異国より操るブレイン群や、エージェント群の手に因って担ぎ上げられる事と相成るのだろうだが、少なくとも、日本民族が望む、若しくは、望むであろう様な条理在る方向へと、主導し牽引する事は遣らないし、また、遣れないで在ろう。但し、日本列島が被るであろう核搭載ミサイルの飛来に因る暴発だけは、現傀儡子政権の取り除きに因って回避可能となる。