日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆捲土重来を期す小澤一郎他五十六名の志士

 民主自由資本主義下、法治国を以って任ずる我が日本国で、法の適正なる、即ち、公正公平を以って旨とし、法条理に違わない運用を順守、並びに、法の番人としても良質性を失うことの無きよう、排他的国権を以って法治行為を託されし者が、在ってもならないのだが、斯かる条理を故意に踏み躙り、在るまい事か作為的濫用を以って法を執行、不法行為を選択、つまり、法執行者に因る作為在る犯罪で在った事が露見した今もなお、被執行者はと云えば原状に復される事なく自由権を束縛された侭に措かれ、被疑者として裁かれる公判の白洲に座らされ続けているのみならず、地位も名誉も財産も、斯かる法の番人でも在る執行者の作為せし冤罪に因って、須らくが奪い取られて終ったと云う悲惨なる実態と、一方では、不法行為の実行者で法の番人でもあった当該執行官は、任意退官を以って無罪放免に付されると云う軽微なる内部処理での済ましを得ると云う、此の善悪転倒著しい乖離をまざまざと見せ付ける現状の日本国家社会、病んだ、或いは、暗黒下の不条理社会に在ると云って過言ではあるまい。

 メディア内を我が物顔に闊歩し、日本民族一億総愚民化を目的とするプロパガンダと洗脳行為に、汚禄を食んでは目的に向かって従事する政治評論家、乃至、政治コメンテーターは、押し並べて当然の如くの面を晒し、検察官に因る不法行為には何一つとして触れる事もせずに看過、在ろう事か、検察庁をして、更なる不法行為継続の”煽り”すら遣って見せる様は其れこそ異常なのだが、其れも此れも、人を貶める事でゼニが稼げる裏事情が在ればのもの、古今東西変わる事の無い、其れはおぞましい権力体制の一状況、断面なのである。

 結果として言えば、意図こそせぬのであろうが、裁判官もまた不法行為者側に引き摺られる立ち位置に在る事は言う迄も無きこと、よしんば、自由権を司る検察庁の意図的総掛かりに因る、「小澤一郎氏陣営」に対する作為的冤罪の被せが無ければ、つまり、排他的司法権を以ってする貶め行為が無ければ、2009年に於ける衆院選での民主党の圧勝に因り、小澤一郎氏を党首として本来に在るべき首相職に就いて居れば、其の後に起きた、所謂、菅直人を党首に擁して選挙を戦った参院選でも、首相小澤一郎氏として民主党は圧勝を治めていたであろうし、捻じれ国会など発生する余地すら全く無く、本来に来たるべき日本国家社会の新たな形へと、二歩も三歩も前進を見ていた事ではあるのだろう。

 歴史に”若しも〜ならば”は無いと言われるが、何故に斯くも、不条理下に措かれた今が在るかの事由を回顧する上では、若しもの仮定の導入は不可欠で重要なる思い巡らし、捨て置く侭にする事の方が本来に在るべき条理の目を、唯々曇らせるだけと相成るのである。

 あの日本を駄目にした藤原本宗家一族末裔の配下に在る、所謂、第三帝国官僚政府の掌中下に現に置かれた、国家財政、並びに、国家行政の権域を、藤原本宗家の政治的前衛を自負する麻生太郎から奪還、参院選に引き続く衆院選を圧倒的多数を占めて勝利した小澤一郎氏をして、予定通りに民主党代表、且つ、行政府の長として送り込み、マニフェストに掲げし為すべき国務として、現行行財政の実態に深々と手を突っ込み、基より、彼等官僚政府が差配せしめし末端にまで至る仕組みにも調査の触手を伸ばし、大胆且つ緻密に、腫瘍部位の切除に向けた執刀のメスを入れ、患部摘出手術を成し遂げていれば、日本国家社会は、大きく条理に向けて転換するうねりを見せていた事ではあるのだろう。勿論、三年目を向かえる今もなお、執刀のメス入れは続いている可能性こそ捨て切れないが、部位的には養生に向かい、或いは、リハビリに向けた再興の為の訓練が為され、淡々且つ粛々と、小澤一郎氏を先頭にして施されていた可能性もまた捨て切れないのである。

 基より、司法権総掛かりに因る、今もなお引き続く小澤一郎氏陣営に対する”冤罪/貶め”の謀一つ作為されず、予定通りに、小澤一郎氏が民主党党首の座にすわり、国権を担って行政府を掌握し、条理を以って司ってもいれば、民主党としての初代総理を手にした鳩山由紀夫氏を一として、二代目の菅直人も、また、三代目の野田佳彦も、資質無きことから生ずる未熟なる侭の政権掌握など、全く在り得なかったであろうし、検察庁の作為的冤罪と戦う小澤一郎氏の後方待機に因って、指揮統括権を担わざるを得なくなった彼等三名の行政府玉座への着席も無く、即ち、其れ故に起きた、沖縄県民に与えた引き続きの苦痛と挫折の上塗りも回避され、また、大地震と大津波に因って原発建屋の倒壊こそ免れなかったが、水爆の惹起に因る放射能汚染の拡散は防ぎ得、福島県民が今なお被り続けるディアスポラ状況は現わさずに済み、消費税倍増から始まる一億二千七百万人国民の、十三階段へと後押しされる不条理ロードに向けた階段の上りすら無く、小澤一郎氏を党首とした民主党政権であれば、悉くに条理在る政治が顕わされ、不条理が入り込む隙など無かった可能性は大なのである。

 勿論、今や、国家社会の後先を全く顧みぬ、謂わば、不条理政府の逞しき擁護者となり、並びに、不条理政党民主党の顔、または、代名詞になって久しい社会正義の放棄者、すなわち、菅直人岡田克也前原誠司野田佳彦渡部恒三玄葉光一郎等々は、小澤一郎氏の為す社会正義の顕現に居た堪れずに責務を放棄、自民党へ懇願して移籍が叶っているか、左もなくば、条理在る政治活動とは何ぞやの命題解析を前にして、自らが垂れ流す便所の掃除や、脂の染み付いた床の雑巾掛けを以って、即ち、自己批判を以って、道々の民が苦しみ足掻く社会実態の場へと舞い戻り、一からの遣り直しを命じられていた事ではあるのだろう。

 更に付言すれば、我ら日本民族道々の民の長に在られる天皇陛下皇后陛下の、御成婚五十周年を熱く慶び、且つ、天皇御在位二十周年を迎えられし其の善き日を、一億二千七百万人の赤子がともに心より喜び、また、御祝いの言葉と感謝を差し上げる事を以って、天皇陛下皇后陛下からは必ずや、我ら道々の民に下賜されるべき”恩赦や特赦”もまた、実行に付されていたで在ろう事は、小澤一郎氏が行政府の長に就いていれば紛う事なく建白として上奏されていた筈、基より、斯かる民族条理も遮断される事なく推し進められ、在慶賀万民の中にも、粛々として斯かる国事行為が執り行われていた筈である。基より、司法権を濫用し続ける検察庁に因る要らぬ冤罪に遭って、今もなお自由権の剥奪に苦しむ鈴木宗男氏等もまた、我が日本民族の長に在られる天皇陛下の御一言で全き不条理からの解放をも見ていたに相違ないのである。

 三年以上前に遡る、所謂、小澤一郎氏の民主党党首の追い落とし劇から始まった”ボタンの掛け違え”、基より、其れは、あの日本を駄目にした藤原本宗家一族末裔達にとっては、言うならば勝利の始まりとはなるのだが、其れから延々と続く小澤一郎氏叩きと冤罪を以ってする国民の洗脳劇は今やピークに達しており、国民、所謂、道々の民の80%までもが、小澤一郎氏不在の民主党三代政権、即ち、フリーメーソン鳩山、アナーキスト菅直人、首切り以蔵野田の三名を以ってする、其れこそが隠れ藤原組の執政時に積み上げられたもの、此れ以上の率の積み上げは不自然さをこそ表わせば、藤原系マスメディアも斯かる不条理報道は打ち止め、日本民族が条理に覚醒するか不条理の侭に洗脳され続け、家畜人間として叩かれ続けるかは、小澤一郎氏に拠る、新党を発足させてでも不条理陣営と戦い続ける云う意思と決断にかかるもの、基より、無一文での出発を覚悟出来る志士とともに戦いに臨むべきである。

 八百万の神々は、正義を顕わし得るものに味方する。