日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆「恩赦、特赦」の下賜は何処へぞ

 エアコンが全く効かなった我が家に在って、菅直人政権同様に思考力も注意力も須らくに於いて散漫にもなりがちで、須らくが一時停止状態に陥るのもまた已む無しとして、当てのない陰に向かって責任転嫁し続けるのを正当化するのだが、過去十年以上にも亘る間に認めた、多くの「雑記」を読み返す事で不条理の抽出もまた再現出来れば、菅直人政権が行財政改革に向けて動いているのかいないのかが判らぬ以上、天邪鬼子を揺り動かすエネルギー源とするには持って来いのものである。

 第五段目ともなる、侃諤二千三年六月十六日<775>条を紹介したい。 <1765年、ジェームス・ワットに拠る蒸気機関車の実用化成功以来、現代に至る238年の文明の歴史経過は、明らかに人類社会の生活態様をがらりと一変させたのだが、それは英国社会組織のみならず国際社会全体の思考回路をも劇的に変化させた238年の歴史経過であったと云えう事も可能であろう。

 一つの知恵の具現化が蒸気機関、所謂、内燃機関の発明にあったとすれば、現代社会に至る自然科学の様々な変遷に限らず、社会科学に於ける諸々の発展と変化を伴う変遷もまた、当該具現化若しくは具象化がもたらした結果であると云っても過言ではなかろう。極論すれば、ジェームス・ワットに拠る一つの発明のもたらしは、自然科学、社会科学に及ぼす思考の核分裂を惹起し、所謂、陽子若しくは中性子としての役割さえ、一つの発明が担ったものと云えるのである。

 劇的な変化を遂げた近現代社会の当該科学態様ではあるが、若し変わらぬものがあるとすれば、それは唯一人間感情だけではあるのだろう。基より、人間が顕わす知識や知恵は一つの紙片に留め置く事も出来、且つ後世へと引き継がれもするが、文学の世界を除き感情だけは引き継ぐ事が出来ずのものである事は云う迄もなく、それは実践の継続に拠る同一認識を以ってしか体現し得ぬものだからでもある。

 人間の一生涯を80年に置き換えれば解る様に、生れ落ちた時から死に至るその80年の間、当該社会に蓄積された知識や知恵の中で生き抜き、その一生涯の幕を閉じる事になるのが常だが、つまり、殆どの人々は財産として残された知識や知恵を習得する中でその一生を終える事となり、新たな知識や知恵を後世に残す事なく、生涯の幕を閉じていく事ともなるのが通常である。勿論、自らを含めて云うのだが、凡人でもある大多数の人々は、新たな知識や知恵を後世に残す事もまたないのだが、そうではあっても引継ぎだけは可能だ。だが、その引継ぎさえも、人の感情に拠って左右されると云う危うさだけは残される事になる。若しこの世に「歴史書」若しくは「歴史学」がなければ、人間の為す危うさを後世に残す事は出来なかったろう。だが、その「歴史書」若しくは「歴史学」も、感情が如何に動いての歴史であったかどうかに迄遡及し、断定、且つ、立証する事すらない。推測は別として、内面に立ち入る事は先ず不可能でもあるからだ。

 アメリカ合衆国を代表した映画俳優、グレゴリー・ペック氏が享年87歳で他界した。故ゲイリー・クーパーともども、少なくとも戦後日本社会に生まれた世代には、アメリカ合衆国のスマートさと力強さを、映画を通して教えてくれた彼等は両雄でもあった。意図的なものであったかどうかは定かではないが、恐らく当時のアメリカ合衆国、所謂50年代から60年代に架けてはだが、純粋な意味で、アメリカ合衆国は「正義」を模索していた時代にはあったとの推定も可能である。

 当時の映画俳優には、グレゴリー・ペックゲイリー・クーパーを一、ジョン・ウェインチャールトン・ヘストンカーク・ダグラスバート・ランカスターユル・ブリンナー等、戦後世代の我々日本人に、強烈なアメリカ合衆国の全体イメージを植え付けてくれた俳優は実に多い。TV劇「ローハイド」のクリント・イーストウッド、「ララミー牧場」のロバート・フラー等も、彼等に比べれば多少は若いが、明解な形で正義を演ずるハリウッドの最後世代であり、日本社会をアメリカ合衆国型社会に変更させて良しとする上で、彼等は重要な教師役すら演じたのではあるのだろう。

 古代劇、現代劇、西部劇と、それぞれの中でそれぞれの役割を演じた彼等ではあったが、共通項は「正義」であり、悪に対する「対決」を核としたシナリオ構成に成る映画が主で、悪は常に葬り去られると云う、一種の勧善懲悪ものではあったろう。

 小学校の高学年から見続けた、特に西部劇を主とする映画及びTV劇は、容赦なくシナリオ上で演じられる「正義」に共鳴し且つ受け容れ、彼等俳優の須らくを権威とすら認め、絶対視する事さえ当たり前とする風にはあったろう。本当に強いのか、正義なのかは問わず、彼等の出演する新たな映画を見ても、何れ彼等が勝利を収めるとの結果予測すら可能として当然の態ではあったし、また、映画そのものも期待に違う事すらなかったのである。

 ある映画で悪役を演じた者が、次なる作品では主役を演じる事など滅多にあるものではなかったが、或る時期を限りに米国映画にも質的変化を見る事となる。主役を演じる俳優ともども、米国の映画界に徐々に変化を見せ始めたのは、それは60年代の半ばに入ってからではあるのだろう。

 60年代の半ばと云えば、取りも直さず、J.F.ケネディーに拠って戦端が開かれたベトナム戦争が米国社会にはあったのだが、映画界に於ける正義の内容も、当該ベトナム戦争の経過並びに、アメリカ合衆国が悪戦苦闘する状況と大きく関わっていたであろう事は疑いもなかろう。

 ジェームス・コバーンチャールズ・ブロンソン、スティーヴ・マックウィーン等がその代表的なグレゴリー・ペック以降の、主人公ともなる映画俳優の面々ではあるが、特徴的な事はと云えば、痛めつけられても最後には何となく勝つと云う、アメリカ合衆国型正義の表わし方に変化を見たであろう事は疑うべくもない。正義は正義でも明解な意味は持たず、何処となく正義を顕わすと云う意味では、自信喪失にも繋がる時代の反映ではあったろう。

 アメリカ合衆国は時として、映画を政治のプロパガンダとして利用する手法を多数執ったが、ケネディー、ジョンソン、ニクソンの三政権へと繋がるベトナム戦争の継続と結果としての敗戦は、アメリカ合衆国の持つ「正義」の理念を根底から覆す事を要求し、且つ、新たな正義理念の立ち上げを求められる事にもなるのである。

 グレゴリー・ペックを銀幕に映して示した米国の清潔さと一種の抑制心は、ジョン・ウェインゲイリー・クーパー、或いはチャールトン・ヘストンの表す、直接的「力と正義」を見せ付けるべくの脚本とは質的にも異なるものだが、ベトナム戦争に於けるアメリカ合衆国の敗戦結果は、それでも米国は正しかったとする、過去の事実は無視しての現実的正義を示す意味で、ジェームス・コバーン、或いはチャールズ・ブロンソン、スティーヴ・マックウィーン型主人公タイプを、アメリカ合衆国は政治的に選択したと云う事でもある。

 映画やTV劇を通じて為した様々なアメリカ型「正義」の顕わしも、娯楽的要素を別とすれば、ベトナム戦争敗戦の後遺症は深く、政治的正義を示す知識や知恵としてアメリカ合衆国国民にすら受け容れられる事のなかった政治的蹉跌、俳優を通じては一向に顕わし切れない米国流正義を、今度はアニメやCDを駆使しての正義作りへと、その目先の変化を追い求めていく事になる。

 歌は世に連れ、世は歌に連れとはよく云われるが、映画は米国を導き、米国は映画を導くと云う意味にもなる様だ。ジョージ・ルーカススティーヴン・スピルバーグに取って代わられた現代の米国映画界、良くも悪くも米国の在り方を模索し映し出すと云う事ではあるのだろう。何処まで表し得るかは解らないが、米国映画を見ていれば、過去も将来予測も同時に可能であるとの決論にもなる。

 戦後生まれの我々は、米国流正義と米国流金儲けの秘訣を何気なく教え込まれ、またそれが可能でもあるかの様な錯覚を、60年間にも亘って未だに続き引き摺っているのも事実だが、故トロイ・ドナヒューやクーキー・エドワーズ演ずる「サーフサイドシックス」も、「うちのママは世界一」の超美人ママも、「パパ大好き」の知的父さんも、或いは「パパは何でも知っている」の家族第一主義の父さんも、「ビーバーちゃん」の天真爛漫さも、実質的には、アメリカ合衆国市民にとっての理想生活の一つではあったのだろうが、現実的社会生活を映し出したものでもなかった事は、戦後60年を向かえようとしている今日、漸くにして解った事ではある。

 グレゴリー・ペック氏の死で、アメリカ合衆国に残されていた唯一のイメージでもある、清潔感若しくは抑制心が完全に消え去ったと云う事でもあるのだが、それは換言すれば、アメリカ合衆国の現実的な民間権力機構の一つでもある全米ライフル協会(NRA)の会長職に留まる、チャールトン・ヘストン氏の存在を逆に際立たせる事にも繋がり、米国に残された化けの皮の残滓として未だアメリカ合衆国にはある事を、我々に教えてくれる事にもなる。

 我が青春時代の須らくに亘り、映像を通じてもたらされたアメリカ文化は、日本の倫理教育になり代わり、正義たるものの何ぞやのみならず夢すら与えてくれたものだが、如何に身勝手なそれは理解であっても、一人また一人と、正義の実演者が抜け落ち鬼籍に納まる現実に触れると、何処となく淋しい気もするし、また、復活して欲しいとさえ思うのだが、如何せんそれは映像がもたらしてくれただけのもの、現実に現われてもいるアメリカ合衆国の強欲のおぞましい常態に触れれば、畢竟、気の毒との言葉でしか云い表わし様もないのである。勿論、気の毒と云う言葉は私自身に向けてのものではある事は云う迄もなかろう。 「知識と知恵」を駆使して作った米国型正義の仮面、それを米国文化として後生大事に抱える事がアメリカ合衆国の「正義」を維持する唯一の方法であるとするならば、未だ健在なチャールトン・ヘストン氏に予定されているこれからの鬼籍入りは、米国として1日でも先送りにし、出来る事ならば避けたい所ではあろう。何故ならば、アメリカ合衆国のみに帰属する唯我独尊の正義は、NRAの全米会長でもあるチャールトン・ヘストン氏の存在を亡くす事で、現実世界へと引き戻され、正義と云う化けの皮の残滓だけがアメリカ合衆国には残されるからでもある。

 私自身のみならず、アメリカ合衆国の顕わす須らくの行為を「正義」と捉え、且つ、信じ切る日本人も少なくはない事と思う。特に50代や60代は云うに及ばずだが、多世代に亘る「親米論者」が日本にも数多く存在する事は、小泉氏に対する高い支持率が間接的にではあるがそれを如実に物語ってもいる。国民が米国流正義の崩壊現象に気付かぬ間は、小泉氏も「日本に於ける」一流政治家として振舞う事は可能である。

 東大生を前にして演説した麻生太郎もその一人ではあるが、朝鮮民族同胞に対する創氏改名問題に触れるのであれば、その前に、広島や長崎に落とされたアメリカ合衆国の手に成る、「原子爆弾」投下の正当性の是非をこそ論じて然るべきものではあったろう。それが戦後総括と云うものではある。戦後総括すら為さずに、戦中、戦前にまで踏み込み、朝鮮民族に対する合邦、若しくは、併合時代の一現象を捉え、不条理に塗れた自らの歴史認識を東大生に明らかにしても、何等の価値も与えられるものではない。一貫性があって初めて意味のある歴史的事実の価値でもあれば、戦争終結の幕引きの役割を演じたともされる、「原子爆弾」の広島及び長崎への投下に正当性を持たせなければ、「親米論者」としての存在価値は全く薄れる事にもなる。

 戦後総括を極力避けて来た自民党歴代政権だが、中曽根政権の誕生を以って戦後総括は形としても完全に葬り去られたと云っても過言ではなかろう。社会体制、特に政治体制から葬り去られた観のある戦後総括ではあるが、それを求めて彷徨う英霊は靖国神社のみならず私達の周りにも万度に現われ、鎮魂を得られぬ侭呻き苦しみ、救いを求め続けてもいる現状に、日本社会が未だある事を忘れてはならない。
 広島に落とされた原爆はリトルボーイと呼ばれる「濃縮ウラン型」、長崎に落とされたそれはファットマンと呼ばれる「プルトニウム型」の異なる原爆投下ではあったが、自民党の歴代政権は、当該原爆利用に対する是非はおろか、シオニストの大統領トルーマンの利用決断に至った真相には一切触れる事もなく見過ごす態は、今年もまた迎えるのではあろう。形だけの終戦記念日とともに怨念を圧し止める事となり、英霊達もまた浮かばれる事なく呻き苦しみ、彷徨い続けるのである。

 「ウラン型」と「プルトニウム型」の異なる原爆を、広島と長崎にそれぞれ投下命令を下したアメリカ合衆国トルーマン大統領、投下に至るアメリカ合衆国の真の内実は永久に葬り去られ一般に公開される事もなかろうが、明確な事実は、投下された原爆が上記の異なる種類の大量殺戮兵器であったと云う事実である。つまり、核実験では成功を収めた異なる原爆ではあったが、破壊威力、或いは破壊後の諸影響を実践を通じてデーターを収集し、次なる核開発に繋げる事は、当時の原爆開発研究者にとって、必要不可欠なそれは人体実験であったと云う事である。

 基より、濃縮ウランタイプとプルトニウム型の何れの原爆が効果的であるかの実験調査もあったのだろうが、原爆投下後、地上からの高さがどの位で核分裂に持ち込めば、最も効果的な大量殺戮や破壊効果が得られるかのデーター等を、シミュレーションとの付け合わせを意図してのものであった事は疑いを容れない。結果として、広島は瞬時にして20万人にも上る犠牲者を出し、長崎に於いての人体実験でも15万人にも及ぶ犠牲者を瞬時に出したのだが、米国ロスアラモスで研究するユダヤ系米国人を一とする科学者達、或いはシオニストユダヤ系米国人大統領トルーマンを一とする為政者達にとっては、極めて心地良い、それは、有色人種日本人に対する人体実験の結果と成果報告ではあったろう。戦争経過から見て、敗戦濃厚な日本でもあった事は、連合国軍側が既に確認済みのもの、当該状況に於ける原爆投下の意味は、人体を使っての実験とデーターの収集にある事は云う迄もなく、米国戦士の被害を少なくし、且つ日本民族のこれ以上の犠牲者を出さない為との取って付けた主文の読み上げは、全く意味を持つものでなかった事だけは明瞭である。

 戦争に誘われ、且つ、敗戦に帰した事を忘れたり、或いは日本民族の置かれた現在の不条理の地位を忘れるものでは毛頭ないが、原爆投下の真相を突き詰めるのは後世に残された者にとっての責務であり、少なくとも、原爆の投下を日本民族に対する虐殺行為であったと総括する戦後国家の締め括りは、後世に残された者にとってのみならず、英霊達の鎮魂の為にも重要不可欠な仕儀ではある。

 シオニストユダヤ系米国人大統領トルーマンの当時の感情を知りたい所だが、歴史は感情を残す事はなく、唯一其処に遺されるのは、日本民族を介して、「人体実験」を強行し、其れを決定したと云う事実のみではあろう。>とある。

 *此処に掲載した中でのハリウッド映画界もまた、振り返ってみれば、シオニストユダヤ系大財閥資本家群の、基より今もそうなのだが、掌握するところでも在ったと云う事である。

 今、最も関心する事の一つが何かと言えば、其れは、昨年に於いて御迎えになられた二つの慶事、即ち、今上天皇陛下、並びに、皇后陛下に於かれての、「御即位二十周年」と「御成婚五十周年」に関わる、所謂、喜ばしい二大記念日に対する、我ら道々の民に対する恩赦や特赦が在ったのか無かったのかが、未だに行政府に拠って示されていない事が其れ、振り返ってみれば、あの日本を駄目にした藤原一族の末裔率いる自民党が国家権力の座から引き摺り落とされ、宮内庁に其の司令塔を置く第三国官僚政府の足許もまた揺るぎ始めた時期とも重なれば、道々の民に対する「恩赦や特赦」の下賜など以っての外として切り捨てたのも、皇室を、シオニストユダヤ系大財閥資本家群とともに監視体制下に置く藤原一族の末裔にとっては当然の政治的作為ではあったろう。

 若し、斯かる藤原一族末裔の作為が条理を以って排除されていれば、恩赦や特赦も下賜されていたろうし、鳩山由紀夫小沢一郎等に仕掛けられた司法府の罠も、鈴木宗男や佐藤勝等に被せられた同様の罠もまた取り外され、原状復帰へと夫々が戻されてもいた事だろう。