日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆新元号【令和】に隠された暗号。


 ”やまとじにたちふさがるやあわだちそうたがはこびしやあがあしもとに”
 「大和路に立ち塞がるやあわだち草 誰が運びしや吾が足許に」 (吉宗武江)

 一首認め措いた拙歌を思い出し取り上げてみた。基より、今月末にも帝の御退位が決断されて居られる、”今上天皇”の御代にかわる、皇太子殿下の天皇御即位に基づく、所謂、「元号」改定に伴う新元号名の決定報道(四月朔日)を見ての想いが、瞬時に込み上げたが故の採り上げ、基より、異邦人傀儡子宰相たる安倍晋三が淡々として並べ立てた美辞麗句とは、似ても似付かぬ〇〇なる印象を以って現れて終った事を付記せずには措かないのである。

 「天皇家」の御存在が、日本国憲法の基、如何に国権に関わられること無く、日本国民統合の象徴に措かれた御存在に在るからとは言え、元号の決定等に対しては、「天皇家」の御考察と御判断によって御定めの基に措かれて然るべきもの、基より、日本国憲法が謳う、斯かる条理在る過程を踏んで決断されし元号で在るならば、異論など差し挟む余地は無く、赤子たる国民は迷いなく受容こそするのみだが、今般の元号改定に伴う、所謂、「元号」推挙者に一般文化人たる人々をして多数含めた事を力説した中での、現下国家行政権者たる安倍晋三の最終決断に成る推挙で在り制定でもあると見て取れれば、其れこそが、赤子たる其の他国民こそが重々目を凝らして注視し、新たなる(確定に措く)当該「元号」に、「天皇家」をして長とし、「日本国民」をして赤子とする日本国家国民にとっての、一つの瑕疵有りや無しやを「新元号」から推測して判断、良し悪しを以って為す賢察に移行したとしても罰は中らない、と言う事ではあるのだろう。

 来る五月朔日から採用される事と相成る新元号【令和】は、「天皇家」が御納得されし次なる「天皇陛下」の御代に措かれる元号ともなれば、赤子たる一市井の民たるものが異論など差し挟む必要こそ有りもし無いのだが、どうも、新元号の決定過程と決断報告に迄至る安倍政権主体に拠る、密室下に措かれし公表経過のみを見させられているとの、言わば、疑義を差し挟まざるを得ずに措く環境下にも在れば、況してや、最終決定項として公表されし新元号【令和】に、各語の概念から受ける意味合いの妙と、配列そのものに、若干の違和感すら覚えれば、腑に落ちぬ心証として認め措いても罰は中るまいとして考えもするからでは在る。

 早速にして貧相にする我が心証を吐露すれば、【令和】の分解に拠る【令】と【和】を凝視、先ず、「令」を見て頭を過ぎるのは、(古代)日本国名を冠するに至る真際か直後に於ける、「飛鳥浄御原令大宝律令、或いは、養老律令等々に見られる<律令>制度下の【令】部、即ち、古代中国をして中心とする東アジア諸国の法典で、【律】とともに国家の基本法典となり、後の行政法、訴訟法、民法などに該当するすべての規定を含むもの。また、言いつける。命ずる。言いつけ。お達し、、の意味もある。また、【和】に関しては、 争いごとがなく穏やかに纏るの意や、和らいだ様の意や、性質の違うものが一緒に解け合うの意。更には、北九州王朝が確かに用いていたとされる”日本国”(倭国)名を、受け継ぎし表明する事となる同時期の”大和(やまと)国”の意などがある。(以上「コトバンク」から部分借用)。

 以上の意味を念頭に置いて【令和】をして分解してみれば、【令】には、行政や行政執行としての意が、或いは、行政法としての命令や概念が意として見えるもの、また、行政権力の実体をして操作し執行する主体者としてのイメージが浮かび上がるのである。更に、【和】を以って解してみれば、今次政府の解釈の様に、平和であるとか、和み(なごみ)である等と解釈もされるのであろうが、【令】をして【和】の前(上)に坐して鑑みれば、其の意味は、和らいだ様や穏やかな様子を意味するものでは決して無く、名詞たる言葉を以って想起すらさせるもので、即ち、此処で云う「和」は、「大和国倭国」を意味する【和】として理解出来るもので、全体の意味として推察し理解すれば、「平和をして命じる」等の意味では無く、「大和国の前(上)に行政権者が存在する」と言う意味となり、「国家の象徴たる大和国天皇家の下の日本国/日本民族)は、現に行政権を行使する安倍晋三政権(蝦夷一族)の指示の下に、唯々付き従う事を約し、従属さえする大和国(日本国)と相成る事を約し、【令和】を以って布告したと、理解推察する事もまた可能となるのである。

 新元号たる【令和】、即ち、此の五月朔日には発布の運びと相成る「令和元年」等の元号は、立派な大和国なる表向きの意味に在るのでは無く、大和国倭国)をして切り拓いた日本民族の長たる「天皇家」の前(上)には、日本国の行政権をして現に担っている、古代東北王朝の末裔たる「蝦夷一族」の存在(現実的)が在る事を、忘れぬ為に<元号として>銘記して措く、と言いたげにも映るのだがどうだろう。

 其の様な、記念すべき静謐に措く大事な時期に在って、其れを裏付けるかの如くの愚言を吐き出した者が一人表に出たのである。即ち、総理大臣安倍晋三と副総理大臣麻生太郎をして崇め奉り、忖度し措く発言をした人物がいたのである。曰く、下関北九州道路の建設は国家起案とし、安倍晋三総理大臣と麻生太郎副総理大臣に成り代わり予算を付ける行動を、わたしが執ってみせると、白昼堂々と発言した人物、即ち、自由民主党員で在り国交省副大臣でもある<塚田一郎(55)>は、斯かる舌害を以って副大臣の辞職をこそ余儀なくされたのである。当然と言えば当然の成り行きで、若し選挙期間中でなければ、或いは、数か月後には参院選(改選)が迫ってもいなければ、如何に舌害のまき散らしとは言え、副大臣職も辞さずに済んだものを、類は類を呼ぶなる、所謂、政治活動や行動の愚びたる自民党政治は、増々にして独裁的に成るのである。