日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆南沙諸島で漢民族中国軍がミサイル発射実験、喜ぶべきは誰。

 政治的軸足として、母国アメリカに置くでは無く、生まれて此の方ソビエト連邦派には在ると目される、精神疾患著しき乍ら、米国政治行政最高指導者の独りとして台頭せしD.トランプ大統領が、今見計らったかの様に、「日米安保条約」の破棄乃至破綻を示唆させる目的の一つには、<露、中、韓、北朝鮮国等>に因る、対米警戒感の縮小を目的とし、乃至は、大幅なる、覇権国家米国に対する見方の変更や目晦ましに、上記し各国をして誘う事に在り、其の意味では間接的乍ら、今般の日本政府に対する「日米安保条約」破棄等の示唆、乃至は、ペルシャ湾岸等の商航路等に於ける船舶等の安全確保と防衛は、自国(此の場合は日本国で在り中国や韓国等を指す)等で為すべきで、米国軍隊をして、安全確保の軍隊として頼りにすべきでは無いと、恰も、米国トランプ政権は覇権国家米国を目指さず、また、財政赤字を縮小させるべく、海外に展開している米国軍(陸、海、空、海兵隊)をして縮小するかの如きニュアンスを以って、国際社会に向けて拡声し始めたのがつい先日の事では在る。

 斯かる、アメリカ合衆国D.トランプ大統領の目論見が思い付きの物事で在れば、即ち、「日米安保条約」破棄の示唆等が、所謂、「改憲」を押し進める安倍政権に対する後押しの為の支援や手法で在るとか、有るのか無いのかすら不明に措く、日米貿易問題に於ける或る種の安倍政権に対する政治的脅し等の一つであれば未だしも、異なる目論見の為に仕掛けられた、其れこそが「ペルシャ湾岸自主防衛発言」で在り、「日米安保条約」破棄示唆等の発言であれば、必ずや、メディア情報に頼る事などせずに、直接、SNS上で心境を吐露、「日米安保条約の破棄」を通告、ハチの巣を突いた状態に日本政府(安倍政権として存続?)をして追い遣り、日本国での喧騒を尻目に、”ギザギザ山”印のサインを書して、記者団が揃う中のTVカメラに翳して見せるのであろう。

 「日米安保条約の破棄」は通告しても、身包み纏めて日本国から退散する事など全く無い(?)アメリカ合衆国、基より、米国軍の為に支払い続けた”思い遣り予算”等の対米国支出予算は、現状の侭に据え置かれる事と相成るのである。

 何が変わるのかと言えば、アメリカ合衆国の実質的支配者に因る実体的戦略が開始された可能性も窺え様と云うもので、D.トランプが目指す後期大統領選への再選に拠る登場にせよ、敗戦に因る、民主党政権への大統領移動が在るにせよ、日本に課せられし条約等の破棄、即ち、「日米安保条約」等の破棄は不変に措かれて現実のものとなり、然るべき対処の仕方は、米国政府事務方との折衝を以って物事に中ると云う事を、其の後暫くは(国際社会に浸透する迄の間は)意味するのである。まさしく此れは、ロシア連邦を除く四ヵ国、即ち、<漢民族中国、北朝鮮国、大韓民国、日本国>の四ヵ国が、西北や西北西、乃至、北北東、若しくは北に向いて轡を並べ、出陣式こそ何時になるのかは判らぬが、モスクワやサンクトペテルブルク、乃至は、ロシア連邦大都市での反乱、乃至は核ミサイルの投下を契機に、ユーラシア大陸へと突き進む事と相成るのであろう。基より、憲法九条に因り手足を縛られる日本国は、積極的に進んで為す戦争は選択し得ず、結果、後方部隊たる兵站部門に身を措き、米国支配者の手足として、ロシア連邦壊滅の為の後方支援活動に身を委ねると云う役割をして担わされるのであろう。

 劇画のワンシーンで在って呉れれば良いのにと、終ぞ思い返したくもなるのだが、此れこそが、J.コールマン博士が長年に亘って調査、研究せし成果発表となる著作集(故太田龍氏監修)が教えている、世界”One World化”に至る道程そのもの、即ち、アメリカ合衆国の実質的支配者で在り差配者でも在る<シオニストユダヤ系大財閥資本家群>が、欧米を拠点に数世紀に跨って内々に創り上げて来た、人類史のヒエラルキーを以って為す究極的目論見、所謂、人類の最終的落着点として提起している所、即ち、場面に因っては、現時点の日本も其の入り口に該当していないとは言い切れない状況下に在るのである。基より、其の場合、懸念されし日本の国家体制となる「人間(日本民族)家畜奴隷牧場」への追い遣りは、殆どが済んで終っていて、後戻りは出来ないと云う事にはなるのだろう。

 そう言えば、(裏では)米国に対抗する為と称し、国際社会の共有領域たる南沙群島に勝手に入り込み軍事構築物を構築、五年程度を掛け、遂には完成させ、二三日前にはミサイル発射実験をも執り行うと云う蛮行を強行したのである。にこにこし乍ら、訪露、訪朝、訪日(G20)を繰り返しては裏では此の有様、誰が最も喜んだのかって、そりゃあ、ウラジミール プーチン大統領率いるロシア連邦では在るのだろう。近い将来に於いて何が待っているのかも知らずに。