日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆亀裂が入るべくして入った日本社会。


 公僕理念は何時の間にか捨て去られ、<出世と報酬増>のみに目を向けるエリート官僚層の新たなる現出は、何も安倍晋三政権の登場を以って開花した訳では無く、其れ以前からも見られる事も在ったのだろうが、何せ、当時の政権与党たる自民党政権に於ける宰相の在任期間は短いもので半年足らずで崩壊、平均的には一年前後と言う短命内閣での推移でも在れば、エリート官僚層としても自己PRをして時の政府に取り入る事で、紛う事無き出世街道の道に上り、若しくは、報酬増の道に引き入れられる可能性は左程に多くも無ければ、公僕理念を忘れずに後背に抱えた侭、地道に、而も、目立たぬ様に業務に専心、粗相の無き様に業務をして熟し続けると言う、至極まともな国家社会の牽引者としての道を歩む事は、エリート官僚層にとってもまた至極当然の事で、当たり前と言えば当たり前の話しでは在ったのだろう。極論を吐けば、(政治的)国権保持者に媚びる必要すら無かったのである。

 だが、第二次安倍政権の誕生は、其れ迄が元高級官僚群をして内閣府の要職に携わる一員として招き入れ、当該政府内局とでも言うべき立場から、各省庁の頭脳部へと自由に出入りさせては、国権者に代わる、直接的間接的申し入れや働き掛けを現役事務次官等に伝達しては為す、乃至は、呼び付けては政府(国権保持者)意向を確かなものとして伝えると言う、特に、至極微妙なる問題点に関して調整を施してもいたのだが、省庁再編に因る内閣府が新たに敷設されてからと言うもの、漸くにして、而も、省庁再編に因り、其れこそ、目論み通りに上手く差配が成ればとの条件こそ付くが、機能的にも職能的にも合目的的に回転していたで在ろう筈のものが、「第二次安倍政権」の誕生を期に、或いは、「安倍晋三麻生太郎タンデム政権」の誕生を期に、目論見通りに国権保持者とのお目通りが成立した事で開花、最短にする<出世と報酬増>への道が、当該政権を以って叶った事は言う迄も無い。

 内閣法制局等にも、公僕理念等に置き替わる出世主義が真っ先に現れて台頭した事は言う迄も無いが、其の大きな出来事の一つはと言えば、今も尚疑義進行中の、財務省官僚を直接に巻き込んだ疑獄事件二題(森友学園加計学園事件)が在り、更に、国家司法権にまで触手が延ばされたとされる、所謂、既遂とされる強姦犯(山口某なる下手人,民訴法上では一審敗訴、型通りに上告。)をして無罪放免にすべく国権を(直間的に)利しては処した、所謂、公安(警察庁)をして動かし(陣頭指揮し)、捕縛間際に在った被疑者をして、逮捕の陣形を急遽解き放ち、解放したとされる事件が其れで、其の外にも、安倍晋三政権が、突かれる事無く永年にも亘って主宰し続ける「桜を見る会」の、通算七回の連続開催に限ってみても、第一回目を基本(数量)とすれば、三倍増にも五倍増にもなる税金の私的流用(飲食費と招待客数の増加)は止まる所を知らず、在ろう事か、塀の上を歩かせれば常に、内側に向けて倒れる様な歩き方をする、言わば、胡散臭い「反社会組織/勢力」をも、回を重ねる度毎に多くを集め、宴会仕様で国税で持て成しもすれば、此れを機に招かれし者は、悪事の為に<安倍晋三の名を>利用さえしたくなろうと言うもの、安倍晋三政権に拠る、斯かる遣りたい放題の私的マターは、斯くして、<出世と報酬増>のみに目を向けるエリート官僚層の新たなる船出と合流するように、姦策は、平然として押し進められてもいったのである。

 宰相安倍晋三を一とし、森雅子法務大臣とする、或いは、財務大臣麻生太郎官房長官菅義偉、其の他諸々の大臣の頭の構造と中身は、一体どの様な仕組みになっているものやらと、訝る昨今ではあるが、勿論、不条理行為を働き続ける張本人の安倍晋三を別とすれば、其の何れの閣僚陣にも、”常識や理性”は多少なりとも存してい様し、理性在る条理に働きたがっているものと察しもするのだが、森雅子法務大臣を筆頭とする閣僚陣の須らくは、”総理のご説ご無理ご尤もな事として、、、”と有り難く受け容れる様は、奇異奇妙以外の何ものでも無きもの、況してや、天皇家に最も近いと自負して已まない、其れこそが、安倍晋三の不条理政治を窘めては詰るべき存在にすら在らねばならない”麻生太郎副総理格”迄が、説教一つ出来ず、況してや、安倍晋三の横に居ながら、”とぼけた事を言ってはならないっ!”として、扁平にして条理無き晋三の頭一つ叩けない此の体たらくでは、「天皇家」に対してすら大迷惑を掛けようと言うもの、極めて忌々しき事態の発生が、現に、安倍政権の中では垣間見る事が出来る、と言う事なのである。

 貧乏神と疫病神を後背に抱えて八年、其れでも尚、(自称)日本民族主体の反社会組織自由民主党は、異邦人傀儡子宰相安倍晋三をして熱烈に支持し続けるのである。