日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

日本社会崩壊のシナリオは第二次安倍政権の誕生を機に始まった。

 世のなか理性在る条理に流れていれば、上級職、中級職に拘わらず国家公務員になりたる者は、其の職業上の本質に於いては、国民(社会)をして理性在る条理に導く為に存在するものと第一義的には認識、基より、国民の安寧と健全、更には理性在る条理に基づく繁栄を求めるべくを核心として据え置き働き切るのであって、基より、入省せし時から全体業務をして明確に把握し覚え、創造さえする為、業務精通する迄の間は、先に入省せし同僚や先達から詳細をして学び覚える事と相成り、何れは自らが有する能力に応じて、国民や国家社会の為に成る事を確信し乍ら創造、省内業務として確立、定年に至るまで功績として遺して行かなければならないのである。

 斯かる、(公僕として在るべき)国家公務員に期待されし、国家社会の為に措く崇高なる理念は、今や何処へ捨て去られて終ったものやら、特に、高級官僚層として入省せし者達の間には、公人理念など全く皆無にして見られず、彼等に在るのは唯々自らの紛う事無き、”出世に至るステップの開発”と”報酬増の見定め”と言う、目に見える現実的実利が存在するのみ、為に、彼等高級官僚群にとって何を為すべきかは必然的に決まるもの、即ち、彼等高級官僚群に関わる<人事権(ポスト)と予算権(報酬)>が行政府たる内閣府に掌握されし今、国家国民の声援を背中に感じ取り一心不乱に業務を遂行、新たなる業務をして開発し創造、或いは、対応策を講じる事などでは無く、手短に言えば、人事権と予算権を掌握する行政府の長に通ずる、省内人事の見極めを的確に為し、其の彼等の目に留まる事を目的として、ルーティーンとしての業務遂行を図る事に在るのである。為に、今では、公僕としての勤め所か、国家社会をして背中に背負う事すら忘れてもいるのである。

 基より、斯かる高級官僚群に拠る上を見てのみ仕事をする公人文化の変容は、今や、反社会組織となって久しい政権与党自民党時代から台頭し見られる事も在ったが、政権を担う宰相ポストの任期が、佐藤栄作政権、乃至は、田中角栄政権や中曽根康弘政権等を除く以外は、押し並べて短命で、略一年を目途に代わりもすれば、高級官僚群にとっても、中々にして、覚え目出度き存在として自己PRに励むには限度も在ろうと言うもの、況してや、高級官僚群にとっての人事権や予算権そのものは、人事院や其々が帰属する本省内に措かれし組織や制度の中で差配すらされれば、不当干渉行為など働く由は一つとして無く、逆に言えば、政権与党の言うが侭にはならない公僕の出現すら、可能性としては在った、と言う事でも在る。

 高級官僚群を一とする国家公務員に関わる人事権や予算権は、大枠に於いては「人事院」が関与するが、実体的には其々の本省が管轄し差配すると言う手法を取るもの、此れが全体的に崩れ始めたのが、2006年第一次安倍内閣(一年の短命で退く)辺りから感じ取られるもので、麻生太郎政権(一年の短命内閣)倒壊後に起きた、所謂、民主党政権の誕生を以って、高級官僚群の性格が変えられたと言って過言では無いのだろう。即ち、政権与党の座を剥奪された(安倍元政権を含む)麻生太郎前政権等は政権奪還を図るべくに画策、旧高級官僚群、特に、旧警察高級官僚等を集めて民主党政権(鳩山党首、小澤一郎幹事長)の冤罪事件造りに奔走、三年間こそ民主党政権は続いたが、キッチリと任期三年で鳩山政権と菅政権、並びに、野田政権をして引き摺り下ろし、勿論、民主党の要たり得た小澤一郎も民主党から離党すると言う、即ち、麻生太郎安倍晋三にとっては思いも寄らぬ成果を挙げる事が出来たのである。

 まさに、変質し掛かった上述せし<国家公務員理念>は、2008年度の自民党宰相として、本の一幕では在るが一時的に幕を閉じる事となる与党自民党麻生太郎内閣の倒壊を機に、警察官僚の手を借りて、民主党政権倒壊の為の種が蒔かれた事は言う迄も無き事、況してや、新たに内閣府を起こし、省内トップを走る有能なる高級官僚群を一堂に集め、彼等エリート群に関わる<人事権、並びに、予算権>をして内閣府に移管し一元化したのは、皮肉にも、民主党政権の時代に於いてでは在ったが、機能的にも開花するのは、第二次安倍内閣誕生を成立させてからで在るから、国家公務員が公僕たる理念を放棄させたのは、基より、安倍/麻生タンデム政権を除いて他には無い、との断定すら得られるのである。今に言う安倍政権の”頭脳”たる<B&A群>が内に籠らずに、正々堂々と表社会に飛び出した時と軌を一にするのである。

 検証こそ差し控えるが、国家公務員上級職を潜り抜けし有能なる高級官僚群の本質が様変わりしたのが、紛う事無く、自民党安倍晋三総裁が国権の座に返り咲いた第二次安倍政権誕生を帰してであるから、森友問題/加計学園問題/刑法犯見逃し問題/桜を見る会問題/法律の蹂躙等々の不法行為等の問題を含む不条理にする政治活動は、まさに、此の安倍晋三政権の手で、白昼堂々と国権濫用政治の再開が始まったと言う事にはなるのだろう。

 俗に言う、「忖度政治の強要」が其れで、省庁再編が為されし2001年度から、新たに編成された省庁の再編に伴い敷設された総理府に代わる、「内閣府」は、暫くは健全性をこそ保っていたのだが、短命内閣が崩れし後の安倍晋三第二次自民党政権の誕生を機に、花が咲いたと言って過言では無く、即ち、各省庁から内閣府に集められたエリート官僚群は国家権力者たる<安倍晋三>の一挙手一投足を間近に見る事で自らの存在をアッピール、事在れば”忖度”すると云う手法、即ち、「魚心在れば水心有り」の、国権の発動者にとってもまたとない状況が生み出されたのである。所謂、公僕理念なるものが完璧に欠落したのも此の時期を措いて他には無く、文科省管轄となる世界少年教育水準の日本少年のランクが大幅に落ちたのもまた此の頃ではある。