日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆日米両国に執拗に居座り続ける”貧乏神と疫病神”

 此処数年、家族や知人、或いは、隣人や地域人たちとの、其れこそ意識こそせずに措く顔見合わせや声掛けでの、春夏秋冬の其々の季節の流れを、共通項にして感じ取る、謂わば、知らず知らずに通り過ぎて行く朝晩や季節をして、味わったり楽しんだりする何気無き日常的態が、何時しか、四季の流れとしても感じていたで在ろう事が、此処数年来はと言えば、久しく感じ取る事無く剥ぎ取られ、置き去りにされて来ている様に感じるのは、体力をして急激に落とした齢(乃至は薬害)の所為も在るのだろう。現代に生を受けし個々人の誰しもに与えられし命運が為さしめる、其れこそが常態をして隔てる虚脱感の悲鳴とでも云うべきもので、言わば、老いの自覚であろうし、また、其の到来と確認でも在るのだろう。勿論、人それぞれに因って老いの感じ方は異なりもするが、何れは誰しもにも隔たり無く遣って来る、考え深き立ち止まりの一生(一時)の瞬間ですらあるのだろう。

 基より、不条理なる政権与党たる自民党政治を見続けた事から始まった、其れこそが、半世紀前から始まる己の、政権政党(当時:自民党佐藤栄作政権)受け容れずを基とする”天邪鬼心”が為さしめし結果として反省もしているのだが、珍しい事に、老いて今も尚続く其れこそが”天邪鬼心”と云うもので、基より、反骨心ほどに確信的でこそ無いが、よくもまあ此処まで嫌悪感が続くものだわいと感心さえするのだが、それ以上に寒心するのは、国権保持者(特に自民党員、もちろん、野党にも偶に見掛けられた)に因る、途切れる事無き悪行や悪態の数々、其の度毎に憂慮し怒ってすら来た事は言うに及ばずのもので、此れまた、今尚続くとは呆れ果ててモノも云えぬ態には在るもの、特に、安倍政権に於いては止め処なく引き継がれても来ていれば何をか況やのもの、民主自由資本主義を奉ずる国家が日本国であるとか、三権分立が確立せし国家もまた日本国である何ぞの、所謂、与党自民党政権の我田引水にする言い分は中らず仕舞いのもの、少なくとも、現安倍晋三政権に限ってみても、何一つとして中る事は無い。

 ”平成天皇陛下皇后陛下”の現世としての御代を承継されし「徳仁天皇陛下、雅子皇后陛下」に措かれる、「即位礼正殿の儀」も無事に開始宣告され、日本民族の一人として安心させていただきもしたが、国事行為とは言え、唯一悔いが残るのは、異邦人傀儡子宰相安倍晋三が主導的に取り仕切る下で為される様にも見える、日本民族にとっての重要なる”天皇家に纏わる即位の儀式”が執り行われる事ではあるのだろう。勿論、間接的にでは在っても、国民が選んだ宰相安倍晋三の主導権の執りに因るものであれば、不条理なる存在で在ろうが無かろうが、残念無念等の言い分は蓋し受け容れられる筈も無く、戯言のセリフとして捨てられるのが落ちと云うもの、とは言え、あの日本を駄目にした<藤原本宗家一族末裔の血を引く>と自負し、豪語さえする、副総理大臣麻生太郎の指揮差配(万歳三唱等)に因る方が、未だ益しな様にも映る。

 慶事としての儀式半ばに在る此の十月末に於いて、法律に違反せし事をして繰り返し遣り続けた事を暴露された菅原一秀経産大臣(早大卒)は、辞職を余儀なくされた中で、異邦人傀儡子宰相安倍晋三はいつも通りにツラッとした顔で曰く、”任命責任は全て私に在ります。国民にはお詫びします。”とだけ言い、今次もまた、安倍晋三自らが執るべき責任は何一つとして執る事も無く済ませた事で、菅原大臣辞職を決めた同日には、台風21号の水害を関東圏にも誘き寄せると云う災禍をすら与えて終ったのである。

 異邦人傀儡子宰相安倍晋三が信奉する米国では、常識に嵌る事の無い、精神疾患著しいD.トランプ大統領が、シリア国内乱問題では、間接的にロシア連邦に屈した事を意味するのだが、トルコ国エルドアン大統領が決した軍事行動の一時停戦要求受け容れを隠れ蓑に勝手解釈、実は米国にとっては、朝鮮戦争ベトナム戦争で見せた、其れこそが敗戦をして宣言する事無く撤退を決意した縮小版とでも云うべきもの、”何時もの”敗戦結果そのものでも在るのだが、D.トランプは自らの力量で在り手腕ですらあると、恥ずかしげも無く言い放って見せたのである。

 ”此の親にして此の子在り”でこそ無いが、嘘を吐くは白を切るは、勝手に解釈をして自己満足さえするはの態をして、平然と執る日米両国首脳、基より、彼等の後背には、”貧乏神と疫病神”が未だ居座り続けているが故のものだからでは在るのだろう。